松本清張著『半生の記』感想 なんともやりきれない話

身につまされる本。

著者を育んだ故郷・小倉の記憶、そして父母のこと、兵役や仕事のことなど……。
いかにして「作家・松本清張」は生れたのか? 文壇デビュー以前の回顧録。

日本が破滅に向って急速に傾斜していった時代、金も学問も希望すらもなく、ひたすら貧困とたたかっていた孤独な青年、松本清張。印刷所の版下工として深夜までインクにまみれ、新聞社に勤めてからも箒の仲買人までしながら一家八人の生活を必死で支えたその時代が、今日の松本文学を培ったのだった――。
本書は、社会派推理小説の第一人者である著者が若き日を回想して綴る魂の記録である。

まったくもって、すごい人。

電気屋で生計をたてながら、小説を始め、あの仕事量でしょ。いやぁ、敵わない。

白い絵本

位置: 167
――私に面白い青春があるわけではなかった。濁った暗い半生であった。
両親は絶えず夫婦喧嘩をした。それは死ぬまで変りはなかった。別れることもできず、最後まで暮していて、母が先に死ぬまで互いに憎しみを持ちつづけていた。母が息を引きとるとき、狭い家の中にいるのに父はその 傍 にも寄りつけなかった。母は、父といっしょになったのは 業 だといっていた。私もそう思っている。こんな不幸な夫婦はなかった。
父は、母を常識のない女だと 罵っていた。それはその通りである。母は一字も読めなかった。父は、それからくらべると新聞をよく読んでいて世間一般の常識は心得ていた。

悲しいくらい淡々と書いてある。その淡々とした、しかし逸らすことのない目で、社会を見続けたんでしょうね。業、ね。男女には色々あるよね。

途上

位置: 461
その頃の 辛 さといえば、中学校に入った小学校時代の同級生に途上で 出 遇うことだった。私は詰襟服を着て、商品を自転車に載せて配達する。そんなとき、四、五人づれで教科書を入れた 鞄 を持つ制服の友だちを見ると、こちらから横道に逃げたものだった。私は早稲田大学から出ている講義録を取ってみたり、夜の英語学校に通ってみたりしたが、意志の弱いためにどちらもモノにならなかった。結局、読書の傾向は文芸ものに向った。

西村賢太もそんな事書いていたなぁ、と思い出します。
学歴というものは、下手に階級のように機能する場合がある。往々にして、下という自負を増大させるのかもしれませんね。

位置: 474
明治時代の作家では、 漱石、 外、 花袋、鏡花など一通り読んだが、自然主義作家にはそれほど惹かれなかった。花袋の場合は「 蒲団」「一兵卒」などよりも、前から彼が書きつづけていた紀行文のほうに 惹かれた。それから、 正宗白鳥の「泥人形」というのを読んで一ぺんに退屈した。どうも私小説作家のものは私の好みに合わなかったと思う。世評の高い志賀直哉 の「暗夜行路」も、それほど魅力は感じなかった。むしろ「和解」のほうに感動を覚えた。それから、「 網走 まで」「小僧の神様」「 城の崎 にて」などは、どこがいいのか分らなかった。そのころの私は、小説にはやはり小説らしいものを求めていたようである。

安心しますね、松本清張だって純文学と言われるものにはピンとこなかったんだ。ピンとこないものに固執する必要はないんだ。

紙の塵

位置: 1,043
私は朝日新聞西部本社で約二十年間働いたが、はじめの二年間は社外の人間で、その後の二年間は嘱託だから正式な社員ではなかった。それで、残りの十六年間が「朝日の人間」としての在勤期間である。この間に三年間の兵役が 挟まれている。
朝日新聞社に勤めている間、私は概して退屈であった。生活が最低の線で保障されていたため、一日一日を生き抜いて行くという緊張感を失った。

それを退屈というか、安寧というか。
自分は安寧だと思う派ですね。

位置: 1,106
部長は何かのときには必ず校正係のことを「縁の下の力持ち」と言っておだて、その地味な努力を 称 讃 した。しかし、ことさらにその価値を口にしなければならないほど日ごろから校正係は冷遇されていた。

いるいる、そういう管理職。
あたくしもよく言われます。庶務なんかやってるとね。本当なんだろうけど、そう言う以外にないんだ、って認識は持っていたほうがいいですよね。

位置: 1,138
ある日、彼の家に遊びに行くと、考古学関係の高価な本が四畳半だかの押入れに一ぱい積み上げられている。ほかに訪ねてゆく者がないとみえ、Aさんはいかにもうれしそうに 蒐集 した石器や土器の破片など次々と出して私に見せた。
この人の影響から、私は社のいやな空気を逃れるため北九州の遺跡をよく歩き回った。 小遣 をためて京都、奈良を歩いたのもその頃である。北九州には横穴の古墳が多い。一晩泊るのは費用がかかるので大てい日帰りだったが、それでも憂鬱な気分が一日でも忘れられて、どれだけ救いになったか分らない。

泣きたくなってくるよね、こういう話きくと。
松本清張だってそういう気持ちだったんだな。

位置: 1,193
ところが、兵隊生活だと、仕事に精を出したり、勉強したり、又は班長や古い兵隊の機嫌をとったりすることでともかく個人的顕示が可能なのである。新聞社では絶対に私の存在は認められないが、ここではとにかく個の働きが成績に出るのである。私が兵隊生活に奇妙な新鮮さを覚えたのは、職場には無い「人間存在」を 見出したからだった。

逆にいい気分転換だった、と。
あがいてるなぁ。

朝鮮での風景

位置: 1,274
私は新聞社に入るまで、安定した生活を得るために自分なりの苦労をした。収入の有利を 棄てて社員になったのも、戦争の進行が必ず私を兵隊に狩り出すだろうと予想したからだった。だが、そのことがなくとも私は新聞社の社員になったに違いない。その月の収入はあっても、保障されない生活は絶えず不安がある。家族の多かったことも自分を 臆病 にし、勇気を失わせた。いま兵隊に取られてみると、最低の生活費ながら、とにかく新聞社から家族に給料が行っていることは安心だった。この保障を失うことは許されなかった。

そうやって戦争に行った人、たくさんいるんだろうなぁ。
なんの義務感だろ。現代人はこの義務感に耐えられるかなぁ。耐えられないから、子どもや家族を持たない人が増えているんだろうか。

終戦前後

位置: 1,470
そんなある日、将校達は日本人会長と会い、アメリカ将校団への奉仕のことで打合せをしていた。彼らは、日本人の女性を差し出さなければなるまいと話していた。その場合、娘さんは困るから、一般の奥さんで適当な人を考えてほしいと会長に要望していた。
話し声はただそれだけだったが、内容はおよそ推察がついた。高級将校には、日本軍の将校がかつて中国大陸に赴いたとき同じ待遇を要求したことが頭にあったようである。このことは彼ら高級将校が戦争犯罪の軽減を願う手段として考えられたと思える。私はモオパッサンの「脂肪の塊り」を思い出した。

生々しい話だ。

位置: 1,535
だが、物心がついてからの私には自由はなかった。だから、二年間の軍隊生活は家族から離れているということで一種の自由感があった。いやでならなかった軍隊生活だが、その自由さだけは一種の生き甲斐 といったものを私に与えた。
両親がいる上に私は妻と子供を得た。私の自由はいよいよ封じられた。脱出の 隙 は閉じられていた。その家庭に、いま、 脚絆 を巻いた靴が私の 身体 を運んで行くのである。逃亡の空想は、田舎道を 辿るにつれて少しずつ失われてきた。

ほんと、悲しくなる。
人生、そんなもんですよね、と言いたい。しかし松本清張はここから這い上がる。かっこよすぎる。

絵具

位置: 2,208
占領軍命令で報道は北九州の一部だけにおさえられていたのだった。

そういう事象は沢山あるでしょうね。

しかし、なんとも読んでいて悲しくなる本。そしてここで話が終わる。
でも、たしかに松本清張という人間を好きになる。

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