『米朝快談』 まさかこの人が演芸好きとは……

嶽本野ばらさん、演芸好きとは知りませんでした。
というか、この人、やっぱり好きだなぁ。

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「門外漢」と侮るなかれ。幼少より寄席に通い、米朝大全集と著作に長年親しみ、いまや小説家の血肉となっている! 十五の演目をネタに自身の貧窮と独り身を笑い飛ばし、人間国宝とAKB48を同列に論じ、島田紳助の凋落と立川談志の芸風を嘆き惜しむ。新作落語にも挑む最強の落語本にして、最新の野ばらワールド全開。

笑いのセンス、文章の色、紡ぐ言葉選び。
どれもあたくしの理想の方向にある嶽本野ばらさん。

生き方だけがどうしようもなくあたくしとは違うのだけれど、出す作品はどれも共感しながら時に涙を禁じ得ないものばかり。
文筆家として、最も好きな部類の人間であります。

まさかこの人が、演芸が、そして、米朝が好きとは。
そしてその素晴らしさをその筆の色のままに描いていて、それを読めるとは。
こんなに嬉しいことはありません。

例えば名作『芝浜』についてのこの考察。

 泣ける――。  のですが、どうもその感動の要素を前面に押し出す演出が、最近は強過ぎるように思えます。  大晦日に女房が真実を告白する件、それを知らされ、魚屋が改めて感謝をし「否、よそう」と杯を退けるまでのシーン、溜めが長く、余りに大仰なのは如何なものか?
そのようであっても構わないのですが、泣ける落語は落語の本分から逸れたものだと考えておいたほうがよいのではありますまいか?
桂米朝は『落語と私』の中でこう記します。
サゲ……というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックをつかって本当らしくしゃべり、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。
落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりハラハラさせたりしていたお客を、サゲによって一瞬に現実にひきもどす。そしてだました方が快哉を叫べば、だまされた方も「してやられたな、あっはっは」……と笑っておしまいになる、いわば知的なお遊びです。
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あたくしも、近年、芝浜』について「泣ける」という感想ばかり目立つとは思っていました。。落語の本質は共感であると思っていて、泣くのは良いことだし勝手だけど泣けるかどうかで観るものでもないし、もっといえば「泣ける」という排泄のレッテルに傾きすぎた『芝浜』は観たくないのです。晩年の談志師匠の『芝浜』も、ちょっとあたくしにはクサくって好ましくなかった。

目頭が熱くなったり、考えさせられる要素が多くとも、サゲがつき、たわいもないフィクションから戻されればこそ落語は本来の意図、独自の軽妙な洒脱さを得る。落語のオチというものは小咄にしろ大ネタにせよ大抵が地口で、くだらない。物語として出来栄えが良い程に、そんないい加減な終わりかたでいいのかというものが殆どです。しかし探偵小説の中の犯人がその後、無期懲役になろうが死刑を求刑されようがどうでもいいように、没頭していた物語はゲームだったとリセットする為に機能すればいいものであるので、サゲのよしあしは作品にさほど影響しません。
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だから、こういう文章を読むと、それこそ良い落語を聴いているときと同じように共感し、ぼんやりと出来て好きです。

最近――といってももう長らくだけれども、想像力に訴えない笑いが主流になっていることを、僕は嘆きます。  すぐに皆、漫才ではなく、コントとして大道具、小道具を安易に多用してしまう。警察官のコントなら警察官の制服を着るし、タクシーのコントなら車内のセットを用意する。これでは幾ら会話が生き生きしていても描写――演劇の台本でいうならト書きの部分がないので、作り手が想像させる努力を怠っていると、感じずにおれない。テレビというメディアは、お金は掛かるけれどもマイクスタンドが一本で演者のみは絵として淋しいとの理由から、派手に大道具、小道具を出すコントの仕立てを好むのだろうけれど、テレビの都合に合わせるという考えかたでは伸びる芸も伸びないのではありますまいか。
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「よくぞ言ってくださった!」と快哉を叫びたくなるような文章。
この人はまた、言葉選びが好み。
「ありますまいか」なあんて、ちょっと洒落てるじゃないですか。

また、島田紳助を論じた部分も最高に面白かったです。
いかに彼が京都人で嫌な感じでエグくて、それでいてそこが好きだというお話。
熱量たっぷりです。

また、野ばらさんは談志師匠のことをこう言っています。

立川談志は人となりも芸も、真面目なのだと思います。うちの親の言い分では理屈っぽいのですが、ちゃんとし過ぎているといったほうが合う気がします。髭を生やし、髭面でも女を演じることが出来るか、きちんと観客に女役として観て貰えるか、なる挑戦にも挑んだ談志ですが、そういうチャレンジってする必要があったのかな。落語が形骸化していく中、彼のように問題提起をする孤軍奮闘の演者がいた意味、功績は大きい。芸へのストイックさを貫いたのは立派。でもどうしても、米朝がいうところの〝熱演〟を談志からは受け取ってしまいます。芸風は全く違うけれど、芸の虫だった桂枝雀にも同様のものを感じるので、やはり食指を動かされない。  だらしなく、ゲロを吐きながら、ボケーっと聴ける落語が僕の求める落語なので、ご容赦願いたい。真剣にやられると気詰まり、こちらも緊張してしまう。
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なるほど、そう映りますか。
やっぱり野ばらさん、面白い。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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