『先生と私』感想③ 受動的能力と能動的能力 #佐藤優

己が恥ずかしい。しかし、それと関係なく、この回顧録は面白い。

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「島尾敏雄の特攻体験は、ドストエフスキーの体験と重ね合わせて、理解することは適切でしょうか」  先生は、少し考えてから答えた。 「いい質問です。ただし、重ね合わせて理解していい部分とそうでない部分があると思う。  ドストエフスキーは、政治犯として、最初、死刑を言い渡されます。そして、処刑場に連れられていき、いざ銃殺になるという最後の瞬間に、皇帝からの使いがやってきて、 恩赦 が言い渡される。死刑から 流刑 に減刑される。一旦、死ぬことになっていたが、死を免れたということでは、二人の体験は似ている。しかし、そうでない部分もあります。  ドストエフスキーは、革命を起こそうとする団体に所属した故に死刑を言い渡される。国家に反逆したことが、死の原因です。これに対して、島尾は、学徒兵として、国のために死のうと思った。それが日本の国が敗北してしまったために、生きながらえることになった。何が死の原因となりうるかということで、二人の体験は決定的に異なる。従って、死をめぐる実存についても、きっと異なった理解になるのだと思う」

中学生が島尾敏雄とドストエフスキーの共通点を見出して質問する、なあんてラノベ的ありえへん世界やと思っとりますが、それはそれ。山田義塾の生徒のレベルの高さに空いた口が塞がりません。

また先生の返事がいいじゃないですか。「死を巡る実存についてもきっと異なった理解になる」なんて、言ったこと無いよ、そんなこと。

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島尾は知識人です。知識人はそう簡単にだまされない。知識人は、国家によってだまされたのではなく、国家の要請と嚙み合うような理屈を自ら作りあげるのです。自分で自分をだますのです。太平洋戦争についても、重要なことは、あの当時、日本人がどういう気持ちで戦争と向かい合ったかということです。これは歴史よりも文学のテーマなのだと思う。とにかくみんなにとって重要なことは、本を読むことを通じて、他人の言うことを鵜吞みにするのではなく、自分の頭で考える訓練をすることです

自分の頭で考えろ、ってか。まったくですよ。そのとおり。もうね、34歳のおじさんだってやっと辿り着いた境地だってのに。

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短期的目的は、佐藤君たちが、どの高校を受けても合格するような国語の実力をつけることだ。それと同時に、大学生になってから、更に社会人になってから役に立つ本の読み方の訓練をしておくことが重要と思う。入試問題の演習をもっとやれば力がつくという先生もいるが、それは間違っていると思う。まず、基礎学力を向上させることが重要で、国語の場合、よい文章を、できるだけ多く正確に読む訓練をするとともに、漢字を正確に覚えることだ」
「確かに漢字は、読むことができても、正確に書くことができないことがよくあります」
「それは、人間の受動的能力と能動的能力が異なるからだ」
と先生は言った。  先生によれば、受動的能力とは、本を読んだり、英語を聞いたりする能力のことだ。これに対して、文章を書いたり、英語で話す能力は、能動的能力である。受動的能力の範囲でしか能動的能力は発揮できないというのが先生の持論だ。従って、国語ならば難しい文章を大量に読む、英語ならば、教科書を暗誦し、さらに英語を大量に聞く、数学ならば練習問題を大量に解いて、問題のパターンを覚える。そうして、できるだけ多くの情報を記憶することによって、受動的能力を極大にする。そこから、能動的能力を引き出していくというのが先生の勉強術だ。

インプットとアウトプットの問題ですね。
まったくこれも同感。受動的能力の範囲でしか能動的能力は発揮できない、という持論、同感ですよ。もちろん一部の天才は除いてだとしても。自分に適応して考えるならまったく同感。激しく同意。

あたくしがこんなブログを延々と更新しているのも、自分なりの能動的能力の軌跡を残すためというのも大いにあります。

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先生は、「いまの教育システムだと、知的能力が活性化している生徒が、足踏みをさせられてしまう。特に生徒に学習意欲があるときに、最大限の詰め込みをしておかないと、受動的能力の受け皿が小さくなってしまう。そうすると能動的能力を引き出すこともできなくなる。学習塾の機能は、資質がある子供の能力を最大限に伸ばすことだ」と言った。

ま、これはあたくしには当てはまらないですが、悲しいことに。子どもにはうんと資質を伸ばせる環境を整えてやろうと思いますな。

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中学校での勉強は、そこそこ面白いのであるが、塾と較べると、同じことを説明するのに3倍も4倍も時間をかける理由が僕にはよくわからなかった。

これはあたくしも少しわかる。小学生までですが。それ以降は完全に落ちこぼれでしたからね。

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「どうしてお父さんは、クリスチャンにはならなかったの」 「キリスト教のことは、勉強してみたんだが、どうもお父さんにはピンとこないんだ」  そう言って、父は自分の宗教観について述べた。  父の家系は代々臨済宗妙心寺派である。親戚に僧侶もいる。父も若い頃には何度か座禅を組んだことがあるという。父は、人間の救済は、究極的に自力によるものと考えている。過去の人生においても、神仏に祈願したことはなく、常に自分の力に頼ってきたという。母の影響を受けてキリスト教の本を読み、教会で牧師の説教を聞いていると、浄土真宗のお坊さんの話を聞いているような気になるという。神という絶対他力におすがりしてのみ、人間は救われるというのが父のキリスト教観だ。しかし、父にはどうしても、何か絶対的なものにおすがりするという信仰が、皮膚感覚として受け入れられない。父は、「人間の因果関係を超えるような、大きな力があるとは、どうしても思えないんだ」と言う。

「人間の因果関係を超えるような大きな力があるとは、皮膚感覚として受け入れられない」というのは、現代人の大いなる悩みでしょう。ニーチェ的というのかしら。難しい話だけど、それこそ、皮膚感覚としてよく分かる。

また稿を改めちゃいます。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』