『帰ってきたヒトラー』は下巻も面白い②

盲目的な人ほど傍からみていて楽しいものはない。ただしその人の主張が共感できるものであれば。

位置: 1,972
そして私が言いたいのは、あなたがめざしているのと同じものを、私もこれまでつねにめざしてきたということだ」
「ちょっと待って! あなたの場合は、理由がぜんぜん別でしょう?」
「持続可能なエネルギー経済を推進するのに、理由が良いか悪いかが関係あるのか? 風車に正邪の区別があるというのか?」
キュナスト女史は怒りを浮かべて私を見た。

実際、たじたじってやつだと思うんですよね。目の前にこんな狂人がいて、理解できる言葉で議論を吹っかけてきたら。

位置: 2,296
こういう女に会うのは、これが初めてではない。六十年前にも、これほどあからさまではないが似たような女たちはいた。自尊心はろくにないくせ、自己顕示欲だけは旺盛なこの手の女は、昔と変わらず社会に棲息しているのだ。自尊心のなさの裏返しか、彼女らは自分に欠けているものを憶測しては、それを必死に隠そうとする。そして、なぜかは知らぬがこの種の女はみな、こういうときには「事態を茶化してやりすごす」のが最適の手段だと考えているらしい。政治家にとって、いちばん災いのもとになるタイプだ。

まさに扱き下ろし。政敵をぼろくそにいうのは品がなくともエンタメ性がたかい。ここは厄介なところ。


位置: 3,085
しかし、ヴェルメシュ氏やドイツの他の批評家は、この本の成功を、世代交代の証拠として受け止めている。戦後七十年を経た今はもう、単にモニュメントを建てるだけではなく、ブラックユーモアによってナチスの過去に向きあうという新しいアプローチが可能になったのだ。 「僕らは同じストーリーを語り継がなければいけない。でも、方法は同じである必要はない」。ヴェルメシュ氏は言う。

ここからはあとがき。
まさにそれでナチスが過去になったからこそ、ブラックユーモアとして笑えるんですな。ヴェルメシュ氏の言葉も含蓄がある。

位置: 3,227
ここには見のがせない要素がある。バッシングに参加した人たちは、少なくとも表層的には「道徳的な義挙」という意識のもとで動いたのだろう。しかし彼らの振る舞いの基本原理は、ナチス時代、「今日からユダヤ人は許されざる存在になりました」と決められた瞬間に多くのドイツ市民がとった「恥ずべき」振る舞いのそれと、まさにまったく同じなのだ。
そう、いまだ克服されていない重要な何かがある……

バッシングに参加した人たち全員がそうだとは到底思えませんがね。すべてをゼロイチで考えるのはよくない。それは昔のコンピューターですよ。
少なくともある程度は自分の頭で考えて「道徳的な義挙」を行っているとは思いますが。もっとも大衆は常に政治で頭を使うことを拒否しますからね。警鐘を鳴らすのは大切だとしても。

位置: 3,245
実際に『わが闘争』の語り口を見ると、逆に『帰ってきたヒトラー』のモノローグ展開の凄さ、リアルさがよくわかる。両者はよく似ている。しかし単に形式的に似せているのではない。 周囲の森羅万象を、オレ的な文脈ですべて徹底的に再解釈しつくす。そして言語的に定義する。すると周囲に一種の擬似世界が生じる、というヒトラーの「根本原理」が、作中で見事に機能しているのだ。

何かに名前を付ける、意味を付ける。その時点ですでに「解釈」が入っている。そこに懐疑的に生きていかなきゃならないんですな。
「美味しんぼ」のせいでアサヒスーパードライが美味しくなくなった人、あたくしも含めているんじゃないかな。

位置: 3,324
しかし私がいちばんおもしろくも恐ろしくも思ったのは、ヒトラーと周囲の人間との会話のすれちがいだ。会話はすべてが誤解と 齟齬 の連続で、それが読者の笑いを誘う。ユダヤ人の祖母をもつ女性がヒトラーを問い詰めるという非常にシリアスな場面ですら、その会話はほぼかみ合っていない。ヒトラーは相手が必死に訴えることをまったく理解しない。理解できない。テレビ局の人間が言う「ユダヤ人を冗談の種にしない」というルールについても、ヒトラーがそれに従うのは倫理性ゆえではもちろんなく、反ユダヤ主義者として本心から「ユダヤ人は冗談の種にならない」と思っているからにすぎない。

そこの齟齬が笑えて、怖い。
ひたすらそれの繰り返しなんだけど、どこか痛快。
もしかしてあたくしもヒトラー的な何かを求めているのかしら。

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