『悟浄歎異 —沙門悟浄の手記—』は中島敦によるコミケ本

西遊記という大変に著名な作品の続編を勝手に書いたやつ。
男が男に憧れる感じとか、ほんとコミケ感ありました。
中島敦さんが今生まれたらいいラノベ書きになったりしてね。

位置: 49
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を 促す機縁だったりする。もともと意味を 有った 外 の世界が彼の注意を 惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。

悟空への憧憬がすごい。神格化の一歩手前ですよ。

位置: 61
この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身 些かの 隙 もない 逞しい緊張。律動的で、しかも一分 のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体が 歓び・たけり・汗ばみ・跳ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をも 欣 んで迎える 強靱 な精神力の 横溢。それは、輝く太陽よりも、咲誇る 向日葵 よりも、 鳴盛る 蟬 よりも、もっと打込んだ・裸身の・壮 んな・没我的な・灼熱 した美しさだ。あの みっともない 猿 の闘っている姿は。

なんという賛美。陶酔している。

位置: 218
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。 変化 の術ももとより知らぬ。 途 で 妖怪 に襲われれば、すぐに 摑 まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が 斉 しく 惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。 悟空 も 八戒 もただなんとなく 師父 を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに 惹かれるのではないか。

位置: 225
三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと 貴 さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。

人間のちょっとした感情のもつれみたいなものを大げさにいうのならそういうことになるんでしょうが、まぁ、ちょっとロマンチックすぎますよね。

位置: 266
それは、二人がその生き方において、ともに、 所与 を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と 看做していることだ。 金剛石 と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の 等置」こそ、彼らが天才であることの 徴 でなくてなんであろうか?

あくまで凡人としての立ち位置に自分を置く安心感もありますけどね。天才は常に孤独です。

位置: 280
孫行者 の 華やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、 猪悟能八戒 もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。 嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に 執 しておる。あるとき 八戒 が 俺 に言ったことがある。「我々が 天竺 へ行くのはなんのためだ? 善業を 修して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その 極楽 とはどんなところだろう。 蓮 の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ 羹 をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、 こりこり 皮の 焦げた香ばしい焼肉を 頰張る楽しみがあるのだろうか?

だから、あくまで己を凡人扱いする安心感に酔ってますよ。「自分には何もない」というときの安心感を人は忘れてはいけない。

位置: 318
孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。 悟空 の 闊達無碍 の働きを見ながら 俺 はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられない もの が内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の 謂 だ。」と。

己の中の声に従う、それこそが自由だと。はなはだ迷惑な自由もありますがね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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