『それいぬ正しい乙女になるために』

嶽本野ばらという一級の乙女に出会えた事を嬉しく思います。

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ラブレタ文学の最高峰

この作品はラブレターの書簡本だと思われます。
どこかの乙女へのラブレター。それがあまりに美しすぎて、ラブレターが普遍性を持ち、昇華して、文学になっているのです。

その乙女至上主義には心から舌を巻きます。
ファッションとしてのキリスト教、ファッションとしての文学、ファッションとしての何か。
日頃はそういったものを唾棄すべきもの、ファッションとは本質ではないと思っているあたくしですが、彼の主張を読むことで変われるような気がします。
全てはファッションで、全てはそれで許されるのかもしれない、そう思い始めています。

極端な論理で耽美的不可侵なものを手に入れようとする

彼の表現の特徴として、何か賞賛するとき、極端な論理を語ることでそれを耽美的不可侵なものだと断じます。

乙女とは「絶対的存在」です。「絶対」とは他とは比較することの出来ない「唯一性」のものなのですから、仲間なんていらないのです。ヤクザ映画の健さんのように、乙女はカッコよく孤独です。「心を開けば友達は出来る」なんていいますが、他人に心を開くなんて勿体なくて出来ません。キラキラ輝く乙女の宝石は、滅多やたらに人に見せるものではないのです。  触れれば壊れそうな硝子細工に固い殻を被り凜として立つ乙女、みつあみを固く結び一人彼方を見つめる少女の何と可憐なことでしょう。無理に世俗に迎合する必要なんてありません。「高慢な子」「陰気な子」といわれても平気です。一人でランチをとるのが耐えられないから作るお友達なんて、バカみたいですもの。
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なんと誇り高いことでしょう。
到底追いつけない、狂気の沙汰です。

好きになるということは、その対象を特別なものとして認識し、他のものと区別するということです。特別なものというのは「特別」な訳ですから、沢山あってはなりませんし、簡易にその称号を与えられてもいけません。心を狭くし、ケチであることは、特別なものを明確に選別する為の方法なのかもしれません(実に嫌みな方法ですけどね)。  広い視野を持て、と先人はいいます。が、それはそんなに大切なことなのでしょうか。狭い視野では人生が謳歌出来ない、らしいのですが、限定された生活もそれなりに楽しいものです。ミクロはマクロに絡がります。僕は宇宙の果てで繰り広げられる壮大な未来の誕生より、小さな瑪瑙の中で育まれた結晶世界の出口のないアラベスクのほうが、よっぽど美しく思えるのです。漫画なら大島弓子、書物なら澁澤龍、音楽ならバッハ、花ならかすみ草、宇宙人ならミスター・スポック。それさえあれば事足ります。
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一体、好きな女のコに対して優しくない男のコなんて存在するのでしょうか。どれだけ無能な男のコだって、優しさくらいは溢れんばかりに持っているものです。逆にいえば無能な男のコは「優しさ」を武器にするより術を持たず、「彼の長所は優しさです」と紹介される男のコは、それ即ち無能ということに他なりません。「彼、優しいから」と言訳するくらいなら、潔く「私は理想に破れ、優しさしか取柄のないこんなカスを選んでしまいました。無念です」と、敗北宣言するべきでしょう。
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こういうことが言えますか。断ずることが出来ますか。
一見、むやみに噛み付いているようですが、彼の弁論の奥には信仰が見えるのです。「乙女になるため、乙女のためには、全てが許される。」という。

ある意味健全すぎる、健康的すぎる、神を持たずに信仰的その日暮らしを続ける自分に、恥ずかしさを覚えるほどです。
ノンポリです。あたくしは、ノンポリなのです。

あたくしも、そういう意味じゃ、乙女になりたい。けれど、乙女とはそんなに簡単になれるものじゃない。研鑽に研鑽を積んで、正しく歪んでこそ、乙女という高みに上り詰められる。あたくしには無理だぁ。だからこそ、そこにシビれる憧れる。

それいぬ

そして乙女を語る、乙女な野ばらさんに尊敬を隠せません。素晴らしい本でした。

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