愛憎入り乱れている『グロテスクな教養』 1

一概に「教養」ってこうだ、と言えないところが教養の胡散臭いところ。

大正教養主義から、八〇年代のニューアカ、そして、現在の「教養崩壊」まで、生産・批判・消費され続ける教養言説の底に潜む悲喜劇的な欲望を、さまざまな側面から映しだす。知的マゾヒズムを刺激しつつ、一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪で少しさわやかな教養論。

全然さわやかじゃないと思いますけどね。
教養復権主義を目指しているのかも疑問だし。ただ、礼賛しているだけじゃないというのは本当。愛憎入り乱れてます。気持ちはわからないでもない。入れ込み過ぎちゃうとね、礼賛できなくなるのよね。

位置: 117
教養はドイツ語のBildungの訳語であるわけだが、これを、カタカナのままのビルドゥングというかたちで、われわれが目にするのは、大衆的冒険小説の宣伝文句などで、ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)の傑作と銘打たれたりするときであろう。吉川英治の『宮本武蔵』や、『ハリー・ポッター』をそう呼ぶ者もいる。

位置: 125
教養小説とは、若者がさまざまな困難を切りぬけ、さまざまな人に出会い、男へと成長していく物語である。

恥ずかしながら「ビルディングス」だと思ってました。青年の成長を描くってことか。
その手の話は、まぁ、嫌いじゃないですよね。苦手な人のほうが少ないと思いますが。

位置: 137
教養は、何より解放の思想なのである。
したがって、ドイツにおけるBildungの覇権は、啓蒙主義とともに伝統的身分秩序と宗教的束縛が解体に向かった、十八世紀後半のブルジョア階級の勃興期にはじまる。自分自身で自分自身を作りあげるという特権は、まずはブルジョア階級の若い男性にのみ与えられた。

スコラですからね。本を読む知識があって時間のある、暇人のみの特権ですよ。

位置: 152
教養主義とは、しばしばそう定義されているのに従えば、思想書や文学書の読書を、自分自身を作りあげるための方法と捉えることである。

「思想書や文学書の読書を」というところがポイントですね。つまり読書によって成長するということ。宮本武蔵やハリーポッターはちがうじゃないですか。

しかしまぁ、ずいぶんと偏屈な考え方ですね。教養主義とは。読書は効果的ではありますが、あくまで一助にすぎないと思うのですが。

位置: 155
教養主義批判とは、そんな方法では、あるいはそんな方法だけでは、自分自身は作りあげられないぞ、ということである。書を捨てよ、アンガージュせよ、肉体を鍛えよ、がんばるな、(本を読むなら)声に出して読め、エトセトラ。

なるほど、すこし正体がわかってきたぞ。

位置: 174
教養論という話になれば必ず引用される、三木清の「読書遍歴」(一九四一) のなかの有名な一節は、大正教養主義の成立状況、政治や経済に関わろうとしない大正教養主義への批判、そして大正教養主義が抱えていた、明治の立身出世主義への 反撥 を手短にまとめてくれている。

位置: 178
あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。或いは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは 却ってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的 乃至 非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。あの「教養」という思想は文学的・哲学的であった。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいうものは「文化」には属しないで「文明」に属するものと見られて軽んじられた。云い換えると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想──福沢諭吉などによって代表されている──に対する反動として起ったものである。

阿部二郎や木下杢太郎の話かしら。とはいえ彼らの著作を読んだことはないんですがね。
とかく、文化人はすぐ政治を離れたがる。それじゃいかんよ、ということか。

明治のような教養が立身出世の道具だった、というかそこがイコールだった時代は幸せだったろうな。

位置: 195
戦後の大正教養主義批判のスタンダードとして知られる 唐木順三の『現代史への試み』(一九四九) も、明治と大正を比較するが、ここで取りあげられる明治の特徴は、福沢諭吉的な立身出世主義ではなく、修養と呼ばれるものである。唐木は、その言葉によって、西洋に犯される恐怖に自覚的であった明治人をよみがえらせようとする。 「放漫に走ろうとする諸欲望、諸煩悩をおさえて、典型に従って自己を型にまで仕上げること」、つまり「自己規制による自己形成」を目指した「修養」にたいして、大正期の「教養派」(唐木の命名)の方法である「文学と人生論についての古今東西に 渉 っての読書」は、たんなる「 葛藤 のない 享受」にすぎない。こんな能天気な読書で自己形成は可能なのか、いや、「あれもこれも」の読書と吸収によってむしろ「我々は自己の形を失った」のではないか。

むむ。あれもこれもの結果自己の形を失う。穏やかじゃないですよ。まるであたくしだ。

続きます。

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