『セクシィ川柳』 破礼句の勉強にもなるし面白い!

江戸時代のエロ川柳、たまりません。

江戸のエロ川柳「破礼句(ばれく)」は教養の宝庫。古典、漢文に上流階級、あらゆるテーマを艶な世界に染め直すエスプリの極致なのだ。いまと変わらぬ男の本音を巧みに詠んだ傑作川柳を現役選者が解説し、奇才のイラストが彩る。知的でエロティックな句に笑ううち、江戸がグっと近づく一冊。

そのまま切り出して落語のマクラに使うも良し、飲み会で使うも良し。
素晴らしい本です。

それをあの手塚絵で有名な田中圭一氏の挿絵付きなんて。
素敵にもほどがあるじゃない。

顔見世の 約束女房 けつをされ

芝居絡みでもう一句。〈顔見世〉とは翌年のオールスターを披露する芝居の11月興行のことで、江戸庶民の憧れのイベントでした。「それに連れていってやるから」と約束する代わりに、女房のアナルを犯してしまう。普段と違う刺激がほしかったのでしょう。芝居見たさに、亭主にアナルセックスをさせた女房もつわもの。

品もクソもない。
素敵過ぎる。

前髪を ひいやりあてて のぼせさせ

相傘で 出るとはふとい 出合茶屋

なるほど、たまりませんな。

また、間々には江戸時代の常識もしっかり挟まってて、勉強にもなる。

「一盗二卑三妾四妓五妻」

江戸時代、セックスで興奮する相手の序列として、男たちが口にしていた言葉です。一盗、すなわち人妻との不倫セックス。人妻のほうから見た相手の男が間男です。夫と自分とのあいだにいる男だからでしょう。二卑は使用人・下女。三妾は自分のお妾さん、つまり愛人。四妓は遊女。そして妻が5番目です。セックスの興奮度はスリルと比例していることがわかる言葉です。

おっと、これは何の勉強になるんだか。

◆華麗なる色街 吉原

吉原は元和4(1618)年、駿河国・東海道吉原宿出身といわれ、江戸で遊女屋を経営していた庄司甚右衛門らの請願と風紀・治安上の理由で、それまで散在していた遊女屋を江戸市中(現在の日本橋人形町あたり)の1ヵ所に集めて作られた遊女町です。つまり、幕府公認の色街。他の場所での遊女屋の営業や売春は違反であり、モグリの遊女は処罰されました。最初にできた吉原は江戸城に近く、昼間の営業に限られていたので客の多くは武士でした。そのためお相手を務める遊女にも教養と格式が求められたのです。
しかし、この吉原は明暦の大火(1657年)で焼失してしまいます。色街が江戸の中心にあることを問題視して以前から移転を望んでいた幕府は、これを好機ととらえて吉原を浅草・浅草寺裏の一角へ移します。移転の交換条件として昼夜の営業を認めたので、新吉原では町人の客が主体となり、廓文化の花が咲くことになります。
周囲と色街を区別するための塀と堀で囲まれた「廓」の総面積は約2万坪(6万6千)。広大な廓内に住む人口も多く、遊女は大見世(高級妓楼)の花魁から河岸見世(最下級妓楼)の女郎まで約3千人、妓楼関係者を合わせると1万人が暮らしていました。そんな吉原では、一晩で1千両が動いたといわれます。

吉原。落語でもお馴染み、遊女三千人御免の場所ってね。

江戸時代になると、この衆道を仕事とする美少年(13、14歳から20歳)たちが現われます。これまで何度か登場した男娼、「陰間」です。歌舞伎の女形を目指している者が多く、まだ舞台に立てない「陰の間」の役者という意味で「陰間」の名が生まれました。美少年たちは女らしさを身につけるため、役者修業の一環として進んで男を相手にしていたのです。

これなんか、ジャ○ーズそのまんま。
昔から、日本人はショタ好きだったんですな。

またあとがきが凄い。
この筆者の出自が書いてあるのですが、そこには驚愕の事実が。
なるほど、だからこそ。実体験に基づいたものだったとは。

これは読んでのお楽しみ。
読んで損はない、素晴らしいエロ本です。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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