愛憎入り乱れている『グロテスクな教養』 2

とにかく「教養とはなにか」という問い自体が有閑な学士固有のものだという認識を忘れられません。

位置: 212
教養俗物を批判したニーチェを喜んで読んだのが、当のドイツ教養市民たちと日本の「教養派」であったように、教養主義批判の言説は、つねに教養主義者たちに受けいれられる。

自己批判のための自己批判。だって、結局、批判する側もされる側も同じくエリートだからね。

位置: 297
日本のさまざまなエリート学生文化は、受験競争がはじまった明治末以来、あるいは、福沢諭吉的立身出世の野心を、誰はばかることなく伸びやかに発露させることが不可能になった明治末以来、今日にいたるまで、僕はたんなる受験秀才じゃないぞ! の声に導かれている。

でも、ここちょっとわかるんですよね。
受験秀才になりきれなかった自分でも。

位置: 333
「教養主義の没落」とは、文学や思想書の読書という行為が、若いエリートたちが、僕はたんなる優等生なんかじゃないと叫ぶための有効な手段ではなくなったことを意味する。

生きづらいよねぇ。勉強しかないから勉強してるのに、そのままだと単なる優等生として疎まれる。

位置: 368
竹内洋が旧制高校生を無条件にほめたたえているわけではないのは、旧制高校生たちにも見られたという「二重戦略」を批判的に取りあげていることに、最も明瞭に見てとれる。「二重戦略」とは、よくある現象に即して説明すると、エリートを自認しながら、あるいはエリートという自己認識をもっているからこそ、大衆文化にも馴染んでいて、秀才なのになかなか話の分かる奴との評判をとろうとする態度である。これを、われわれの例の台詞で言いなおせば、難解な哲学書を読むふりをすることは受験勝者の仲間内で、僕はたんなる受験秀才じゃないを誇示しあう方法であり、難解な哲学書なんか知らないふりをすることは、外部の世間にたいして、ぼかぁ冷たい優等生じゃありませんよと 媚びる態度であった、となろう。

文学を愛しつつアニメも愛するという感じか。違うか。

でも、あたくしもよく媚びましたね。進学校ほどブルーハーツや尾崎豊が流行るという現象を、あたくしも目の当たりにしました。

位置: 698
実際、薫くんが描写する日比谷高校( 因みに丸山も江藤も、日比谷の前身である旧制一中の出身)の「いやったらしさ」は、一高そのものだ。「芸術派」やら「革命派」やら「猛烈個性的でいわば天才肌の変り者」がそろっており、東大合格者数ナンバーワンの学校なのに「学校中が受験競争なんて全く忘れたような顔をして」、「馬鹿でかいオーケストラがしょっ中演奏会をやってたり、おかしな雑誌がボコボコ出たり、とにかくクラブ活動が滅多やたらとさかんで、生徒会活動の方もいつも超満員の生徒総会を中心に猛烈に活発で」という具合なのである。もちろん薫くんは母校を肯定的に描いているのだが、しかしその裏に、僕たちはたんなる優等生じゃないと叫ぶ「ソフィスティケイテッドな優等生」たち独特の「他者との比較・競争関係」があることを見逃しているわけではない。

進学校のそういう感じ、生でみてきた人間からすると、本当にそういう気風はある。
今でも日比谷にはそういう校風があるんじゃないかしら。自己肯定感強い人間の巣窟って感じ。

位置: 1,141
こうして、はじめから「国家ノ須要ニ応スル」(帝国大学令) 実学を中心とせざるをえなかった帝国大学は、ドイツでは総合大学の外に放逐されていた工学部を、大学の内部にしっかり組みこんだのである(しかも現在でも、東大や京大の工学部の学生数は他学部に比べて突出している)。ドイツの大学では、哲学部(文学部)が、大学の理念を担う教養を伝授する学部として、すべての学部の上部に位置づけられたのにたいし、我が国では、富国強兵には役立たない人文学を扱う文学部は軽んじられ、文学部をもたない帝国大学すら存在した。

大学の生い立ちから日本は西欧の真似にすぎない、なんて批判は永遠にされるんでしょうね。いつまでやってんだとも思うけど。「だから日本はだめなんだ」みたいな批判のひとつに、いつまでもこの人文学の軽視がされ続けられる。

位置: 1,271
河合は、教養(自己形成や人格陶冶)と職業とが対立してしまうことを隠さない。「 若し吾々の人生の目的が、人格の成長にあって、人格の成長とは全人の姿を体現することにありとすれば、職業はその本質上人生の目的と 背馳 すると云う奇怪な結果に到達するのである」。だから、むしろ職業生活に入ってからこそ、教養への精進を怠ってはならないという話になるのだが、これはもう省略しよう。

あたくしも常々、「労働は悪だ」と思っているタイプの人間ですが、かといって教養に精進しているとも言い難い。

位置: 1,310
また、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』を開けば、「本をたくさん読まねばと思って本を取ってみますと、さらに私の苦痛を深くさせます。それがいい本であればあるほど(たとえば「ファウスト」「人間の運命」「ツァラツウストラ」)苦痛と不安を増しました」という、出征直前の京大生の言葉が見える。このような証言や報告は、一種の紋切型になるほど多い。
本物の兵隊にならなくてはいけなくなったとき、あの一兵卒魂の教養軽視は、むしろ消えたのである。もう先には死しかないということこそ、無償なる教養の最大の推進者であった。このことは現在でも、カルチャーセンターや大学の社会人聴講などに見られなくもない現象であるが。

皮肉なもんだ。死を意識するからこそ、より教養的に生きようとする。すると、やはり教養は人間を最後に救うのかもしれません。

位置: 1,389
教養エリートはエゴイズムを捨て国家に尽くすべしというノーブレス・オブリージュは、そもそも近代西欧の高等教育の理念だったのである。それが、第一次大戦において独英の学生たちが大量に 志願兵 となり戦死したことで、理念から恐ろしい現実となっただけだ。

理念は理念。
欧州だってみてると、その理念が根付いてるとはとても思えないけどね。移民問題、若者の失業。

位置: 2,193
それにしても、教養主義と高学歴にからんで、もてる・もてないの話がよく登場してくるものである。しかし問題となっているのは、(女ごときに)もてる・もてないではなく、それを通して表面化する思い上がりを罰することなのではなかろうか。結婚相手としての好条件を備えているとみずから信じている若い男性が、その間違った自己理解を罰せられるという話は、そのような条件を備えている当該者たちに、マゾヒスティックなまでに好まれるように思われる。

もてる・もてないというのは永遠のテーマですよ。妻帯しようが家庭を持とうが、関係ない。しかし、教養を蓄えた人間にマゾ的な指向が多いというのは何となく肌感覚としてわかる。

位置: 2,614
もし、教養や教養主義にたいする筆者の態度がいま一つ明確でない、批判なのか擁護なのかよく分からない、と感じられるとしたら、それは、人間をその複雑さのままに示してみたいという本書の願いから来ている。教養は、もちろん、この人間の複雑さと切りはなしては考えられない。

これは言い訳だと思いますけどね。

よくできた本だけど、とっ散らかってる。それもまた、教養のなせる業なのか。

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