杳子のズレ方が絶妙だ、と思うのはあたくしだけかしら。
位置: 1,178
それ以来、彼は杳子と街なかに 留まっている時間を出来るかぎり短くすることにした。この次には、杳子の病気は人目も 憚 らず女の叫びを上げるかもしれない……、そんな奔放な想像が彼を 怯えさせたのだ。
人中に出来るだけ留まっていないようにすると、二人のいとなみはおのずと例の場所に限られてきた。二人の関係をいよいよ外にむかって閉ざしていくことに、彼は 歓びを覚えた。
隔離された二人だけの世界に歓びを覚える。彼も随分と好事家ですな。杳子と一緒にいられるんだからそうか。いやしかし、彼も結構危ういよな。
位置: 1,854
「姉さんが、病院に行くよう君を説得してくれって言ってたよ」
「あなたが行けって言えば、今すぐにでも行くわよ」
「病院に行ってどうなるの」
「健康になるのよ」
「健康になるって、どういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」
投げやりというよりも、病気と和んで、こうしてこのままでもいられると確めた満足感の中で、あとは家族の心配のことも考えて、成行きを待っているという風だった。五日前から杳子が昔の姉のように 風呂 に入ろうとしなくなったわけが、彼にはわかる気がした。おそらく杳子は自分の病気の根を感じ当てたのにちがいない。そして何をやっても、何をやられても一生変えようのない自分のあり方を知って、階下の姉にむかって、自分を病人として病院に送りこんでもかまわないと合図を送っていたのだ。
覚悟の入浴せずだったわけだ。しかしそのサインの出し方とか病的だよなぁ。
杳子の中ではすでに理屈が通っている。理屈というのはどこまでも個人的なものであるということを思いますね。
位置: 1,980
「どこの夫婦だって、耐えてるじゃないか」
「自分の癖の露わさで、相手の癖の露わさと釣合いを取っているのね。それが健康ということの凄さね」
「二人とも、凄くなってしまえばいい」
杳子は 眉 をひそめた。彼は自分の食べかたを意識してぎごちなくなった。二人は黙りこんで、お互いに自分の羞かしいいとなみの中に 耽った。声を立てずに、息さえころして食べていると、自分自身の盲目的な生命の中に斜めに浸りこんで、目だけ外に出して我身を見つめているような孤独感があった。しばらくして杳子はクリームの中から露出したイチゴをフォークの先でつつきながら言った
なんだかこの二人の会話が真理をついている気がしてくるんですよね。
自分まで狂っている、というか、己の中の狂気に気付くというか。
盲目的な生命の中に斜めに浸り込んで目だけ外に出して我が身を見つめているような孤独感、てなんだ?感覚的だ。
位置: 1,989
「だけど、あなたに出会ってから、人の癖が好きになるということが、すこしわかったような気がする」
「どんな癖だろうね。僕は健康人だから、わからない」
物を食べる 頑 な 哀しみの中から、彼は目を上げずに答えた。杳子の言葉を 撥ねつけるのではなくて、 嫌悪 の中からようやく差し伸べられた彼女のやさしさを、理解したという気持からだった。杳子も彼の言葉を誤解せずに受け止めた。
「そうね……。あなたには、あたしのほうを向くとき、いつでもすこし途方に暮れたようなところがある。自分自身からすこし後へさがって、なんとなく 稀薄 な、その分だけやさしい感じになって、こっちを見ている。それから急にまとわりついてくる。それでいて中に押し入って来ないで、ただ肌だけを触れ合って、じっとしている……。いつも同じだけど、普通の人みたいに、どぎつい繰返しじゃない」
その距離のとり方が主人公の心地いいところなのかもしれないな。
そしてこんなこと、言われてみたいなぁ。
位置: 2,002
「入りこんで来るでもなく、距離を取るでもなく、君の病気を抱きしめるでもなく、君を病気から引張り出すでもなく……。僕自身が、健康人としても、中途半端なところがあるからね」
「でも、それだから、ここでこうやって向かいあって一緒に食べていられるのよ。あたし、いま、あなたの前で、すこしも羞かしくないわ」
いいツガイだな。
妻隠
位置: 2,114
そんなことを考えているうちに、彼はふいに、見まちがえられていることに奇妙な喜びを覚えはじめた。自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いているのを見るような気持がした。そればかりか、声をかけてくれる人なら誰にでもすがりつきたくなるような不安さえ、ほのかに感じはじめた。彼の 仏頂面 がすこし弛んだ
これも不思議な話なんですよねぇ。妻の中に自分の知らない側面をみて、妙な興奮を覚える話。谷崎的かなと思うのは曲解かしら。
位置: 2,271
思わぬところで女の戦線を張られて彼は妻の顔を見た。 眉 を 顰めて礼子はまた窓の外に目をやっていた。男たちの欲求を一視同仁につつんでしまう老婆の目にひきかえ、こちらは 癇症 な拒絶の目である。しかし、お互いにどこかしら通じあうところがある。男たちをいっしょくたに見る女の目は、結局、どれも似たような表情を帯びるものだろうか。それにしても、そんな目を礼子はいつどこで得て来たのだろう。そう 訝りながら、彼は妻の視線をたどって、畑にそって歩み去っていく老婆の姿を思い浮べた。
しかし古井先生はすごいものを書く。
よく他人をみているわ。
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