『ノルウェイの森』の寮が好き。人生最後のるつぼ。

若かりし頃に読んだ時よりは嫉妬抜きで読めたな。

「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけどー 私たちまた会えるかしら? もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているん だけど」
「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」
 彼女は赤くなった。たぶん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。
「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナー・シャツの両方 の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に 染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの」
 直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そこに何か適当 な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろん そんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった。
「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもど う言えばいいのかわからないけどさ」

春樹に出てきがちな「なんていえば分からないけどそうしよう」的展開。10代のころに読んだ時は「ふーん、大人ってそういうこともあるんだな」くらいに思っておいたけど、今は「そういうのがあると思ってたのにあんまりないな」ですね。

もちろん、そういう駆け引きやら酸いも甘いもの場にたくさん出現した人にとってはあるあるなんでしょうが。あたくしは地味に過ごしてきたのでそんなことなかったな。でもこの間の直子の表情とかがありありと浮かんでくる感じ、好き。

p53
七月に誰かが彼のいないあいだにアムステル ダムの運河の写真を外し、かわりにサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジの写真を 貼っていった。ゴールデン・ゲート・ブリッジを見ながらマスターベーションできるのかどうか 知りたいというただそれだけの理由からだった。すごく喜んでやってたぜと僕が適当なことを言 うと、誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真が変るたびに突撃隊はひどく混乱した。
「いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?」と彼は言った。
「さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやってるにせよ、ありがたいこ とじゃない」と僕は慰めた。
「そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね」と彼は言った。
そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかったので、僕もよく 彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持の良いものではなかった。
彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎなかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。誰がそれを笑いものにできるだろう?
とはいうものの〈突撃隊ジョーク〉は寮内ではもう既に欠くことのできない話題のひとつにな っていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではなかった。

今読むと、ここ、すごく引っかかるんです。
突撃隊、不憫過ぎません?

主人公だって「彼を笑い話のたねにするのはあまり気持ちのよいものではなかった」って言ってるのにね。これ以降はあまり躊躇なく笑いを取っている。人間というのはこうやって意識せずに加害者になるんだなーと思ったり。
結局突撃隊がいなくなった理由は明らかにされないんですが、もしかしたら主人公にあるのかもしれないと思ったりもします。

p59
永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多く の奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にか かったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経て いない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼 は言った。
「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴 重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
「バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答えた。
「あまり今日性のある作家とは言えないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんな ものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。

この永沢という男もヒールで魅力的なんだ。「時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくない」なんて、嫌な奴ですがかっこいい。
しかし、突撃隊から永沢までいる、この寮ってほんといい。雑多な感じ。人生でこれ以上交わらないだろう、階級のない最終地点。

ダンテなんて読んだって全然面白くないように感じましたがね。やはりできる男は違う。

「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは 喜ばしいことだ」と彼は言った。
「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、 自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」
「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」
「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあっ たろう? あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごし て通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」
「なんとなく」と僕は言った。
「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たち は何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡単な ことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なことなんだ。そんなのアッ
という間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そうい う可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか? 自分に能力があって、そ の能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りすぎるかい?」
「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだか見当もつか ないな」と僕は笑いながら言った。

なんとなくもわからないし、見当もつかない。
しかし永沢さんはあたくしの人生とは違う基準で生きていることは確かですね。本を読むのは好きだけどベクトルが全然違う。

そしてそれを受け入れるところから、人生は始まるのです。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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