『これで古典がよくわかる』感想2 大胆な古典の取説

古典というのは読みにくいからこそ、噛みごたえがあっていいと思う。そんなむきも、あたくしにはありますが。

日本は「随筆の国」

位置: 913
清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』からはじまって、もうずーっと日本のおじさんたちは随筆を書いています。「随筆の最初」は、清少納言という女性なんですが、その後の時代に、「随筆」というものは、もっぱら「おじさんの書くもの」です。

エッセイでも書くか、みたいな安直な発想。今でもありますね。
随筆ってのはおじさんのものだったのか。

日記は漢文、随筆はひらがな。そんなことってあるんかしらね。

「ひらがなの物語」をバカにする光源氏

位置: 1,065
「実際、こうした昔の話でもなければ 紛らわしようのない 退屈 というものはありますからね、それはそれで 結構 と申し上げておきましょうか。人の心の慰めようは色々だ。そう思って見ると、なかなか物語というものはよく出来ている。 虚妄 の 言 としか思えぬものを書き 連ね、遂には人に〝 成 程〟などと言わせてしまう。そこに至るまで、 偽り 言 の手を止めないのが物語の書き手というものの執念でしょうな」
いかにも「物語」というフィクションをバカにしている男の発言ですが、この〝悪口〟は、もっともっと続きます。これを言ったのは、光源氏で、シーンは「蛍」の巻です。
親友の娘・玉鬘 を養女として自分の邸・六条の院に引き取った光源氏は、いつかこの玉鬘にひかれています――はっきり言ってしまえば、中年になった光源氏は「セクハラおやじ」になっていて、養女にしたはずの玉鬘に、いろいろとちょっかいを出します。ところが玉鬘は、そんな光源氏に関心がありません。一人で熱心に、「物語」を読みふけっています。養女として光源氏に引き取られた玉鬘は、都を離れて田舎にいましたから、都に来てはじめて、「物語」というものに出合ったのです。玉鬘は、「物語」がおもしろくておもしろくてしかたがなくて、でも、光源氏にはそれがつまらないのです。ですから、八つ当たり半分に「物語の悪口」を言います。

いや、たしかにね。男ってのは幼稚ですから。特に嫉妬が絡むとね。
この辺、リアルなんだよなぁ。紫式部はよく見抜いているわ。

鎌倉時代に、京都の王朝貴族たちがやったこと

位置: 1,223
「趣味と人事異動とお祭り」それと「恋」だけで生きていたのが平安時代の国家公務員です。食料不足のくせにパレードばっかりやっている、どっかの国と似ています。「酒飲んで社内の噂話しかしないサラリーマン」というのも、平安時代からの伝統でしょう。つまり、「文化だけはあったけれども、あとはなんにもなかった」というのが、平安時代なんです。ものの見事に、「平安な時代」でした。

バッサリ。すきなフレーズ。

源実朝は「おたく青年」の元祖

位置: 1,320
まわりを見たって「和歌を詠む」なんて人はろくにいやしないんですから、源実朝は、もうほとんど、「ススんだ都会に憧れる田舎の中小企業の社長の息子」のようなもんです。

例えが秀逸。橋本治さん、話は上手いんだよなぁ。ちょっと超訳している気がしないでもないけど。

日本の古典が「平安時代中心」にかたよりすぎているわけ

位置: 1,392
ます。「日本の古典」ということになると、どうしても「中心は平安時代」ということになって、読みにくい「ひらがなの文学」ばかりが持ち上げられます。日本の古典文学の基本が平安時代に作られて、平安時代が「古典文学の黄金時代」であることは事実なんですが、私はやっぱり、「異様なまでの平安時代偏重」にちょっと異議を唱えたいんです。

明治政府が「王政」の時代として奉ったのが平安時代だから、という説なんですがね。

どうなんでしょうね。中国でも新でしたっけ、新王朝が周をモデルにして大失敗したらしいですけど、あれに近いんかしら。温故知新もそのままじゃ駄目ってことかね。

なんだかわからない世界

位置: 1,553
《照りもせずくもりもはてぬ春の夜の 朧月夜 にしくものぞなき》
作者は、 大江千里 という男性。「月がこうこうと照っているんじゃなくて、一面に曇っているんでもない、月がボーッと霞む春の夜の朧月夜は絶品だ」という意味ですが、まァ、それだけです。

大江千里と書いて「おおえのちさと」と読みます。おおえせんり、じゃない。

それだけ、ってのがいいよね。俳句だ。

「『新古今和歌集』か『万葉集』か」論争の裏にあるもの

位置: 1,580
藤原定家の歌は「梅の花の匂いのすごさ」を歌ってるんですけど、でも、この歌のやっかいなところは、「大江千里の歌」という「本歌」を知っているかどうかですね。「夢の浮橋」の歌じゃ『源氏物語』を知っていなきゃならない。日本の和歌のやっかいなところは、そういう〝教養〟を要求されるところです。「だから古典はやだ」と言う人は大勢います。そういう人たちにとって、源実朝の「万葉ぶり」の歌は、とてもわかりやすくていいんです。

ハイコンテキスト好きは日本人の特徴ね。
万葉はストレート、新古今はツーシーム。

伝統とか歴史とか点と点を線で結ぶ行為とか、そういうのが好きな人が新古今を読んでニヤリとする。マニアックかもしれないけど、あたくしは新古今の良さもよく分かります。

いたって大胆な、ハシモト式古典読解法

位置: 1,602
私は、べつに「万巻の書を読破した」っていう人間じゃなくて、行き当たりばったりで「ヘー」と言って感心してるだけの人間で、こういう私の最大のとりえは、「古典を恐れない」ってことなんですね。「ヘー」だけで古典に入ってったっていいんです。ただ、そういうことをやる人があんまりいないってだけです。だから、古典というものが「むずかしいもの」になっちゃうんです。

この人の大胆さは読解法というよりは解釈や解説だと思いますがね。

しかし分からないものを分からないままに収受するというスタイルはあたくしも重宝しています。分からないまま、享受したい。

位置: 1,611
もちろん、私にも「理性」というのはありますから、「こういうオレってバカかもしんない」とは思うことたびたびでした。でも、そのたびに私を救ってくれたのは、「日本の古典」という存在でした。だって、昔の人は、ポカンと空を見て「朧月夜にしくものはなし」って言ってたんですから。「それが〝日本の古典〟という文化なら、オレの態度はいたって正しいな」と思って、平気で「へー」と生きてきました。「教養」というものは、使うんだったら、こういうふうに強引に我が身に引き寄せる方向で使うべきですね――と私は思います。

都合のいいように古典を使う。これも未来人の特権かもしれませんね。大いにやるとひけらかしみたいになりますけどね。

「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」の意味

位置: 1,628
「あしびきの」は、「山」にかかる「 枕詞」で、「山鳥の尾のしだり尾の」は、「長い」にかかる「 序詞」なんですね。つまり、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」には、なんの意味もない。「山鳥の尻尾は長くたれている――だから〝長い〟」、ただそれだけです。この歌の意味は、ただ「えんえんと長い夜を一人で寝るのか……」だけです。

その長さを強調するためだけの回りくどさ。キライじゃないぜ。

「武の上皇」と「文の将軍」

位置: 1,683
源実朝は、『新古今和歌集』の技巧的で華やかな世界に十分憧れていました

田舎の土建屋の息子が都会の文学にハマる的な話です、確かに。

位置: 2,120
大きな本屋さんに行けば、「古典文学全集」の類を置いているところがあります。文庫の棚にも「古典のテキスト」が、あるところにはあります。そして、そういう本をめくると、普通の人はすぐに閉じたくなります。なぜかと言うと、「注釈」の類がいっぱいあるからです。「古典文学全集」だと、上の方に「注」がズラッと並んでいて、上の「注」と下の「本文」をかわりばんこに見ながら読み進んでいかなければなりません。「大学のゼミ」とかいうところならともかく、普通の人はそんなことやりません。そんなことやってたら、書いてある本文がちっとも頭に入らないからです。だから、「古典を読もうかな……」と思っても、すぐに挫折をしてしまうのです。はっきり言いますが、あの「注」の類を読んで理解するためには、「ある程度の基礎知識」というものがいるんです。

そういうことって、本当によくある。いいんだよ、まずは。注なんか読まなくたって。

古典は体で覚える、と橋本先生は言います。確かにそうで、落語と一緒だなぁと。
目より耳から入るのが正しいとも思いますね。

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