夏目漱石著『彼岸過迄』感想 後半こそ秀逸

後期の作品だけあって読みやすくはある。

明治期の文学者、夏目漱石の長編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1912(明治45)年]。続く「行人」「こころ」とあわせ後期三部作とされる。修善寺で生死の間を彷徨い、五女のひな子の急死などに直面したあとの小説。人間の心の奥の苦悩と愛の不毛を描く。主人公の川田敬太郎が聞き手としてさまざまな登場人物を引き出す6編の短編と「結末」からなる。長編小説の新しい手法の先駆と位置づけることができる。

しかし、作品を通してみると、ちょっとテーマが分かりづらいというか、何がしたかったんだろうな、という感想。

彼岸過迄に就いて

位置: 25
この作を 公 にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ 浪漫派 の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く 標榜 して 路傍 の人の注意を 惹くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと 吹聴 する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に 濫用 される空疎な流行語を 藉 りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。

漱石らしい、少し卑下気味のユーモア。この序文がいいんだ。

位置: 45
「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は 空しい 標題 である。

実務的にすぎる。まぁ、そこも漱石らしいね。
多分にポーズも入っているだろうけど。

風呂の後

位置: 357
「田川さん、あなた本当に 飲 けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない 癖 に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去を 碌 でなしのように 蹴 なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、 後光 が 逆 に射すとでも評すべき態度で、 気燄 を 吐き始めた。

こういう厄介な絡み酒、ありますよね。明治からあるんだ。文明は進歩すれど、人間はそれほどでもない。

停留所

位置: 686
そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者 否 人間の異常なる 機関 が暗い 闇夜 に運転する有様を、驚嘆の念をもって 眺めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。

あくまで傍観者。ま、言っている趣旨は分からないでもないですがね。漱石らしい、腰抜け主人公。

位置: 1,298
彼は 今日 まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を 有っていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、 貫 ぬき 終 せた 試 がなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、 向 で引き摺り出してくれたのだから、中途で動けなくなった 間怠 さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の 晴々 した心持も知らなかった。

ぐさっと来るよね。ぐうの音も出ない人、多いんじゃないかな。当然あたくしもそのうちの一人です。大学卒業だって、今じゃ大したことではない。

位置: 1,344
けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、 敬太郎 の思案には屈託の 裏 に、どこか 呑気 なものがふわふわしていた。

緊張感がないんだよね。あたくしもそうだ。

位置: 1,683
手紙の文句は 固 より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十 恰好 の男がある。それは黒の 中折 に 霜降 の 外套 を着て、顔の 面長い背の高い、 瘠せぎすの紳士で、 眉 と眉の間に大きな 黒子 があるからその特徴を 目標 に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。

探偵小説じみたところ。しかし漱石には合わないんじゃないかな。

位置: 2,076
その時 敬太郎 の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる 廂髪 に 結っているので、その辺の区別は始めから 不分明 だったのである。

こういうときにふとそういう発想になるの、面白いね。あるある。
この情けなさというか、しょうもなさが、また、漱石の魅力でもある。

報告

位置: 2,686
肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は 男女 の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を 有った青年の常として、この観察点から 男女 を 眺めるときに、始めて男女らしい心持が 湧いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり 判切 分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく 鮮やかに映った。

こねくり回してるなぁ。漱石節。

須永の話

位置: 3,639
二人は 柴又 の 帝釈天 の 傍 まで来て、 川甚 という 家 へ 這入って飯を食った。そこで 誂 らえた 鰻 の 蒲焼 が 甘 たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。

先日閉店したそうだ。しかし、「甘ったるい」との評価。この点についてはあまり報道されていません。当たり前か。

位置: 4,119
千代子が僕のところへ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい 天賦 の感情を、あるに任せて 惜気 もなく夫の上に 注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年のいかない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して 然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で 指す事のできる権力か財力を 攫まなくっては男子でないと考えている。単純な彼女は、たとい僕のところへ嫁に来ても、やはりそう云う働きぶりを僕から要求し、また要求さえすれば僕にできるものとのみ思いつめている。二人の間に横たわる根本的の不幸はここに存在すると云っても 差支 ないのである。

徹底的に自己評価が低い。
でもそこが好きなんだよね。だから、あたくしのような人生弱腰な男子は、漱石に惹かれるんじゃないかな。

位置: 4,353
僕は普通の人間でありたいという希望を 有っているから、嫉妒心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、 眼 の当りにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた 試 がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉妒心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉妒心を 抑えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。

すげぇ共感する。
自分の嫉妬心に気づき、おどろき、抑えつけようとする。その動機が「申し訳ない」ってのがいいよね。

位置: 5,054
その時母は 半ば心配で半ば 呆れたような顔をして、「何ですね女の癖にそんな 軽機 な真似をして。これからは 後生 だから叔母さんに免じて、あぶない悪ふざけは 止しておくれよ」と頼んでいた。千代子はただ笑いながら、大丈夫よと答えただけであったが、ふと 縁側 の椅子に腰を掛けている僕を 顧みて、 市 さんもそう云う 御転婆 は 嫌 でしょうと聞いた。僕はただ、あんまり好きじゃないと云って、月の光の 隈 なく落ちる表を 眺めていた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払う事を忘れたなら、「しかし高木さんには気に入るんだろう」という言葉をその後 にきっとつけ加えたに違ない。そこまで引き摺られなかったのは、僕の体面上まだ仕合せであった。

ここのあたりの描写はさすが。自尊心がやたらと高い。そして品格を大切にする。

愛おしいなぁ、敬太郎。

位置: 5,229
ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを 強 ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の 侮蔑 が輝やいたのは疑いもない事実であった。

位置: 5,235
「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」
彼女はこう云って、僕が両手で耳を 抑えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれどもとっさの場合何という返事も出し得なかった。
「あなたは 卑怯 だ」と彼女が次に云った。

自意識高い系男子としてはもっとも目をつむりたい、耳をふさぎたい状況。
男の嫉妬はみっともないし、指摘されたら最悪。

位置: 5,288
「あなたは 卑怯 です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した 料簡 さえあなたはすでに 疑っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは 他 の招待に応じておきながら、なぜ 平生 のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を 搔 いたも同じ事です。あなたはあたしの 宅 の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打ちはどうでもかまわないんです。あなたの大土が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでもあなたの心が与えているんです」

読んでいて辛い。
こういうのを甲斐性なしというのではないだろうか。

根っからの甲斐性なしの自分には、辛い言葉であるよ。

まとめ

千代子の言葉には、打ちのめすような力がある。読んでて辛いの。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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