映画『セッション』 セッションとは、カネヤン製造計画である

愛聴番組『東京ポッド許可局』でテーマになっていた映画『セッション』。
タツオさんが「突き詰めれば桂文楽か古今亭志ん生か。芸事をやっている人は是非観てほしい」と言っていたので迷わず観賞してまいりました。
凄かった。ネタバレありで綴ってみます。

エリートの物語と、解釈の難しさ

鬼軍曹と天才の物語、なんですね。基本的には。
PKさんもおっしゃってましたが、エリートの物語。むしろエリート中のエリートの物語。
だからこそ、ここまで過酷に、ここまで過激になるわけです。
「第二のチャーリー・パーカーを育てたい」という鬼教官と、「歴史に名を残す偉人になりたい」という天才。その二人が過激で悲劇でドラマチックな交わりをするのです。

あまりにその交わりがキチガイすぎて、常識では理解できないかもしれません。
実際、あたくしも最初観た当初は「なんじゃこりゃ」と思いました。
理解に苦しみますよ。

アメリカ映画なのに、甲子園的

まず、あたくしは安楽投手のことを思い出しました。
天才と言われ、メジャーからも視察が訪れるほどの天才。
2年に一人の天才です。

その天才を、高校の上甲監督は連投につぐ連投で、徹底的にイジメるわけです。
もちろん、いわゆるイジメではありません。
ただ、その素質を伸ばすため、発揮するため、試練につぐ試練を与え、そして結果を出し続けさせる。これもまた、愛といえば愛でしょう。

ただ、この日本的・甲子園的な愛は、メジャーからは大批判。
メジャーでは選手は消耗品。大切に扱うべき「資源」であるのに、大成する前の大切な身体をことごとく摩耗させようとするように見えるわけです。ちなみにあたくしも、この考えに近いですね。

よって、安楽投手の育成方法はメジャーには理解されない。
日本でだって今は、球数制限をさせるべきだという風潮でありますから、ね。
野球の噺ですけど。

話を戻して、映画『セッション』です。
チャーリー・パーカーとは、野球で例えるなら400勝投手ですよね。
その400勝という非常識中の非常識をつくるためには、常識では考えていけない。
連投?酷使?それくらい乗り越えて当然だろ?

張本やカネヤンの言っていることまんま

分業制が進んだ現代のプロ野球では、400勝どころか200勝だって10年に一人二人の話になりました。斎藤雅樹や西口文也が200勝していないことからも、その偉大さ・貴重さがわかります。あの二人だって200勝していないって、ほんと、驚愕ですよね。打者では結構、2000本安打を達成しているのに。

理由はいろいろあるとは思いますが、結局、確かに、常軌を逸した投げ込みや酷使をして、それでも壊れずに勝てる人材でなければ200勝は無理なのです。まず中6日や5日では無理。中2日、中3日で先発し、毎年20勝して、10年強で達成するようでなければ、200勝など無理中の無理。ましてやチャーリー・パーカーの400勝など夢のまた夢。
これを、昔のように、限界を顧みずに投手が投げていた時代のレジェンド達は嘆いています。「最近の野球選手は根性がない。すぐ痛いのなんだのと言い出す」とね。

くしくも、昭和のおじいちゃん元プロ野球選手たちの言っていることと、この鬼軍曹・フレッチャー氏の言っていることが同じことになるのです。
超一流になるのに、常識や人情は必要ないのです。ただ練習と勝利を繰り返すだけ。あくなきその追求の果てにのみ、レジェンドへの道はあるのです。

チャーリー・パーカーになるには、血が頭から流れるくらい問題ないことで無くてはならない

そのあたまりのストイックさ、ストイックな追い詰め方に、あたくしは血の気が引きました。
同じ、というと気がものすごく引けますが、芸のためなら女も泣かす、そのあまりの昭和っぷりに唖然としました。

ただ、それがもしかしたら、今にかけている昭和ぽさなのかもしれません。ハングリーさなのかもしれません。

「下手な奴はロックでもやってろ」という世界の、昭和的ヒーロー育成方法。
何だか思うところが多々ありましたとさ。

もう少し、考えを整理して、また筆を取りたいと思います。
それくらい、考えさせられる映画でした。

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