『アニメの教科書 下巻』 自分は結構ガイナックスと接してきたことを実感

オタクである以上、ある物事を縦軸で観る執着心がなければならないのですが、自分はそれを欠かしておりました。

本当に、なんと言っていいのやら。
あの『プリンセスメーカー』がガイナックス作品だと知りませんでした。
何をのほほんとやっていたのか、当時の自分。

ガイナックスのゲーム班、赤井孝美氏が「『信長の野望』の、部下の育成部分だけをやりたい」という提案に、岡田氏の「女の一生」を足して考えだされたのが名作『プリンセスメーカー』だったなんて。

『はっちゃけあやよさん』を昔、店頭で観た気がする

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当然、タイムリーではないですがね。
この著の中で、いかにこの『あやよさん』がすごいゲームかを説いていて、何だか懐かしさのあまりジーンとしてしまいました。伝説の風を感じていた余韻、とでも言いましょうか。

岡田氏の語りは悪魔的

自分のものづくりや物語を、ここまで面白く話せる人を、あたくしは知りません。

僕にとっては、その作品を作る動機とか作品のテーマと、自分の生き方をギリギリまでシンクロさせる。  それはあらゆる作品を作る方法の中でも、最も面白いんだけど、最も簡単に人生を駄目にする方法かもしれません。  チャレンジした千人中たった五人ぐらいが成功して「ばんざーい」と言うんだけど、残りの九百九十五人までが、それ以外の作品の作り方を見失ってしまいます。そんな方法を選んでしまったばっかりに、苦しみ続ける人生が待っている。悪魔の方法論なんですね。  それでも、僕は表現すること、作ることには意味があると思います。  僕たちの世界は大きくて複雑すぎる。個人が受け止めて解釈するには、あまりに多様すぎるし、その歴史も学んでいるうちにどんどん「知らなければいけないコト」が増える一方です。  だから僕たちは世界を「物語」でしか受け止められない。世界を、自分の語れる「セカイ」にしないと生きていけないんです。 「わたしとは何か?」とは、自分の人生にテーマを見つけること。  そのテーマは誰もが納得する「事実」だけではないでしょう。でもあなたにとって「わたしだけの物語」なのです。 「わたし」と「セカイ」の物語。それが人生のテーマです。

とか

たとえば「自分の書いた本を読んで影響を受けてくれる、生き方の一部を変えてくれる人が大勢でる」というのは、僕にしてみれば遺伝子を残すことよりも一万倍も百万倍も快感なんですよ。  自分の子供が生まれて育つということは、自分の肉体とか自分の性格の一部がコピーされるということです。ジーン、遺伝子が受け継がれるということですね。  ジーンに対して、自分の概念、ものの考え方、価値観のコピーみたいな物、これをミームと言います。知識、知性を伝達する遺伝子ミーム、知伝子とでも訳すとよいでしょうか。そのミームが一部でも受け継がれ広がっていくこと、それは自分の子供が生まれて育つとは別の、強烈な快感です。  そういう快感を感じられるのは、「ものを作る」というヤクザな生き方を選んだからこそ、と思っています。  かわりに、こういう生き方をしている人間は、世の中に必要がなくなった瞬間消えていくべきだと覚悟しています。世の中から「お前みたいな人間はもう要らない」「流行遅れになった」とか言われたら、さっさと消えていくべきなんです。  絵描きだったら、「お前の絵は古い」って言われた瞬間に、その人は用がなくなるんです。  僕はそれを当たり前のことだと思っています。

格好良すぎるでしょ、このおっさん。
雄弁すぎて気持ち悪いくらい。本気でアジさせたらいけない人ナンバーワンですよ。

宮崎勤についての考えに共感してしまう

ものすごく誤解を受ける言い方かもしれませんが、宮﨑勤という人間が裁判を受けたり本人が望んでないような目に遭ったりするとしたら、あるいは刑務所に放り込まれたり処刑されたりするとしたら、それは「俺たちの代表としてだよ」と思っちゃったんです。  そこには、現実に行動に移したか移してないかの差だけしか存在しない。  近代法では、結局は心の中で何を考えようと、何を行動したかで裁かれます。「宗教信条の自由」ってやつですね。心の中でどんなに妄想してもいいんだけどもやっちゃいけないというのが近代的な法律の考え方です。  近代に対して、前近代的な思想とは宗教的な考え方です。そんなことを考えてもいけない。思ってもいけない。絶対的に神を信じなきゃいけない。  宗教が支配する前近代から、法律が支配する近代になりました。隣人を愛さなきゃいけない時代から、隣人を愛さなくてもかまわないからみんなで親切にしろという時代へ。  恵まれない人を慈しまなきゃいけない時代から、どんなにバカにしててもいいから、公的に補助を与えろという時代へ。  妻でない女性に対してみだらなことを考えてもいけない時代から、心でどれだけみだらなことを考えていてもいいから、人の目の前で裸になったり風俗を乱すようなことをしてはいけない時代へ。  思想とか物の考え方はどうでもいいから、行動のみを制限しましょうというのが近代法の考え方です。  そういうことは充分に知っていても、考えてしまうわけです。

これ、あたくしが宮崎勤について考えていることを何十倍も明瞭にしたものです。まさに。
我が意を得たりとはこのこと。

あと、感銘をうけたのは、時代によって文学のになってきた役割が違うという話。

19世紀から20世紀初頭までは、文学者は尊敬され、模範を示すべき人たちだった。しかし、20世紀になり民主主義が社会システムに浸透すると、社会が個人を守る「盾」から個人を押しつぶそうとする「圧力」に変わった。だから、20世紀後半の文学は、「表現の自由を守る」という役割を果たしてきた。

しかし、21世紀になり、さらに文学に課せられる役割が変わってきている。それを岡田氏はこう言います。

現代社会というのは、そういう時代のターニングポイントを越えてしまったと思います。「二十世紀後半、文学にしてもアニメにしても、あらゆる芸術が、芸術という建前を掲げて、散々楽しんだ。そろそろ本道に戻って、人格とか道徳というものを語ったほうがいいんじゃないかな」というのが、僕の考えです。

この部分については、正直まだピンと来ませんが、それはあたくしがまだ20世紀の軛に繋がれているからでしょうか。この辺についての考えも、改めて読みたいものです。