『子どもへのまなざし』は自分には合わない

どっかで誰かがべた褒めしてて、「へー、それなら」と思って読んだら、なんだ、大したことないなという雑感。

本というのは、合う合わないありますからね。いくらその人が好きだったとしても好きな人の本まで好きになれるかは別問題。

p47
飽食の時代になって、私たちは わがままになったと思います。人間が空腹を満たすために、たいして努力をしなくてもよくなったら、どういうことになるのか…、そのことを教えられる思いもします。
 人間が人間関係をさけてくつろいでいるとか、やすらいでいるとかいう状態では、 親子関係は人間関係ですから、うまくいかないですよね。人間関係のなかに、やすら ぎを求めるということも、できなければいけないのですね。

基本的には「昔はよかった」「今はだめだ」の論調の繰り返し。辟易。

p47
子どもというのは、本来、ひとりでいるなんていうことは、退屈で耐えられなかったはずですね。友達となにかしていることが楽しかった。メンコでビー玉でち、コマまわしでる鬼ごっこでちね、陣取りでもあやとりでも、おはじきでお手玉でも、 なんでもかんでも友達としているのが楽しかった。

個人的な矮小化された経験が全人類に通用すると思っている。この書きっぷりだけで、あたくしはもう「だめだ」と思いました。思いやりが足りない。

p45
おふくろはお隣にあがりこんじゃって、お芋かなにかごちそうになっていた。そういうふうに人恋しく、人なつこく、人とおしゃべりをするのが楽しかったので、家族がお腹をすかせて待っているのに、「ちょっとだけおしゃべりを」といって、話しこんだ まま、いつまで帰ってこない。家族がしびれをきらして、私がむかえにいったら、 おふくろが「そうそう帰らなくちゃ、お芋を希まえるひとつよばれなさい」なんて、 ひとつもらって帰ってくるとか、人との関係でくつろげる時代でした。母は隣の家の人とおしゃべりを楽しめたのですね。その当時は、みんなが友達という気持ちを、だれもがもっていたのでしょうね。ですから、みんな生き生きしていました。
ところが現代人は、人といっしょにくつろぐことに、喜びや憩いを感じることが少 なくなりました。人びとはひとりでいるときのほうが、くつろぎや喜びを感じるようになりました。

ほんと、大きなお世話です。「昔のひと」と「現代人」で優劣を決めるかのような言い方。あたくしも落語なんぞ好きですから、そういう雰囲気は嫌いじゃない。けれど、単純に「昔はよかった。ひきかえ現代人は」の論調には同調できません。

p64
教育とか育てるということは、私は待つことだと思うのです。「ゆっくり待ってい てあげるから、心配しなくていいよ」というメッセージを、相手にどう伝えてあげる かです。子どもにかぎらず人間というのは、かならずよくなる方向に自然に向いてい るわけです。

いいこともいう。けど、最後の一文。「人間はいい方向に自然に向いている」、これが間違っていると思いますね。自然=無条件で礼賛すべきもの、といういわば自然無条件降伏。これは違うでしょう。少なくとも、すべてに適応されるものではない。

優しいふりをした無知な善意が、この本にはあると思いました。

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