#「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 感想② すげぇリテラシーだよ

みんな大好き、司馬遼太郎。

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戦国時代の下剋上、幕末維新の大転換、明治から昭和への連続と断絶……歴史のパターンが見えてくる
当代一の歴史家が、日本人の歴史観に最も影響を与えた国民作家に真正面から挑む。戦国時代に日本社会の起源があるとはどういうことか? なぜ「徳川の平和」は破られなくてはならなかったのか? 明治と昭和は本当に断絶していたのか? 司馬文学の豊穣な世界から「歴史の本質」を鮮やかに浮かび上がらせた決定版。

前回の続き。
司馬さんは人物評価に対する言明が明確、とのこと。たしかにね。ときに善悪二元論のようで、その点はやはり池波正太郎先生との違いで、どちらかというと池波正太郎先生のほうが好みだなぁなんて思ったりしてましたが。

磯田さんはそれについて、このように述べています。

位置: 320
そうした低い評価を与えられる人物は、その作品中である種の「役割」を持たされています。つまり、その人が有能であってはいけない。もしかしたら軍事指揮や政治で「二流」と書かれた人物が、じつは手芸や書では一流だったかもしれませんが、そうした多様性は取り敢えず置いておき、社会に与えた影響という面で大雑把に人物を切り取るところが司馬作品のひとつの特徴なのです。

物語上、人物の多面性を描かないほうが、ダイナミックに読み進められる、と判断したってことですかね。そうかもしれない。司馬先生ほどの方が、人間を善悪や良し悪しを二元的に考えているわけがないか。

この説明、この本で最も腑に落ちた所。磯田さん、やりますね。

位置: 326
司馬作品を読むときには、一定の約束事、言わば「司馬リテラシー」が必要なのです。

違いない。はい。肝に銘じておきます。

位置: 787
さらに連載只中の昭和四五年(一九七〇)一一月には、三島由紀夫の自決がありました。三島は、あまりにも思想に生きなくなった日本人に対してアンチテーゼを投げかけた人でした。それを横目で見ながら司馬さんは、思想と相容れない大村益次郎という人物を描いていたわけです。  司馬さんは、三島由紀夫の自決について同情的なことは書いていません。もしかしたら、ひとつの思想に傾いていくことに対する警鐘の意味を『花神』に込めていたのかもしれません。「思想は人間を酩酊させる」「日本人の酩酊体質」という表現をよく用いました。

「日本人の酩酊体質」ね。自身のファンにも向けておっしゃっていたんでしょうか。司馬作品は酩酊しますからね。あれ、強いですよ、度数。

位置: 840
司馬さんが考える「歴史を動かす人間」とは、思想で純粋培養された人ではなく、医者のような合理主義と使命感を持ち、「無私」の姿勢で組織を引っ張ることのできる人物だったと言えます。

あたくしにゃ到底無理。まず私利私欲。満足してないんでしょうな。

位置: 1,325
二〇三高地をはじめ旅順をめぐる攻防戦で、乃木は多くの将兵を死なせてしまいます。結果として日露戦争は日本の勝利に終わったため、乃木は「軍神」として伝説化するわけですが、「乃木凡将論」「乃木愚将論」もささやかれていました。それが決定的になったのは、『坂の上の雲』によってでしょう。司馬さんは、乃木だけではなく、彼の下で作戦の指揮をとる幹部をまとめて「無能」と激しく非難します(もちろん、「司馬リテラシー」をもつ私たちは、この表現が日露戦争における役割という限定された意味であることを理解して読むべきです)。

夏目漱石『こころ』で、先生がその死にショックを受け、合わせて自殺するほどの将軍を、こき下ろす。しかしそれはあくまで「日露戦争」において、という高度なリテラシーを必要とするものでした。すげぇな、司馬さんも、読み解く磯田さんも。

位置: 1,347
『坂の上の雲』を高く評価する人の多くは、「明治はいい時代だった」と言います。しかし、明治人が目指したのは坂の上の雲ですから、いくら坂を登っても、それはつかめないということも、司馬さんはわかって書いているのです。登りつめた坂はやがて下りになります。坂の上の雲がつかめないままに坂を下っていくと、下には昭和という恐ろしい泥沼がある。司馬さんは、この書名でそのことを言外に語っていると私は思います。

歴史ファン界隈にはうようよいますよ。「明治は良かった」論者。『坂の上の雲』信者も山ほど。言ってやりたいし読ませてやりたい。

位置: 1,700
司馬さんが子どもたちに伝えたかった主旨は、おそらく日本人の最も優れた特徴である「共感性」を伸ばすことだったと思います。司馬さんのこの文章内の言葉で言えば「いたわり」です。他人の痛みを自分の痛みと感じること──どうしたら相手は辛いだろう、どうしたら相手は喜ぶだろうといった、相手を慮る心が日本人は非常に発達していることを司馬さんは指摘します。  かつて、日本語には主語がないということがよく論じられました。司馬さんが「鬼胎の時代」と呼んだ昭和前期に文部省が出版した『国体の本義』のなかに、日本語に主語がないのは無私の心があるからだ、というようなことが書かれています。だから、無私の心で人に尽くすのが美しい姿だとするのですが、私は少し違う気がします。 「私」がないのではなくて、「私」と相手の区別がないのです。つまり、相手の気持ちになりやすい、気持ちが溶け込んでいるわけで、これが「共感性」でしょう。司馬さんは、日本人の相手を思う気持ち、自他の区別がないさまを強調したのだと思います。

これを読んで、どうして「人に共感できる人間でありたい」と思わずにはいられますか。ちっきしょ。今日も頑張って共感するぞ。