『坊っちゃん』感想③ 清への気持ち #坊っちゃん #漱石

いいよね、清への気持ち。

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世間がこんなものなら、おれも負けない気で、 世間並 にしなくちゃ、 遣りきれない訳になる。 巾着切 の上前をはねなければ三度のご 膳 が 戴けないと、事が 極まればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を 縊 っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を 資本 にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの 傍 を 離れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに 暮される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして 田舎 へ来てみると清はやっぱり善人だ。

恋しい恋しい清。坊っちゃん、可愛いですな。

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しかしお蔭様 でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。 「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」 「山嵐て何ぞなもし」 「山嵐というのは堀田の事ですよ」 「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある 方 ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」 「つまりどっちがいいんですかね」 「つまり月給の多い方が 豪いのじゃろうがなもし」  これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。

”おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。”てね。白か黒か、はっきりしないものが格式の高い芸術だという風潮が多い中で、勧善懲悪じゃないと分からない、とはっきり言う坊っちゃん。大学出の秀才でありながら、そのへんはきっぱりと愚をわきまえていてかっこいい。

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世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ 日本 が困るだろうと云うような面を 肩 の上へ 載せてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの 狸 もいる。 皆々 それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように 大人しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに 靡くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な 旦那様 が出来るもんか。

漱石のこのへんのリズミカルな心情吐露は、本当に気持ちいい。啖呵じゃないんだろうけど、筆の啖呵というべきか。

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議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで 惚れさせる訳には行かない。金や 威力 や 理屈 で人間の心が買える者なら、高利貸でも 巡査 でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。

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俺と山嵐はこれで 分れた。赤シャツが 果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。 到底 智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても 腕力 でなくっちゃ 駄目 だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの 詰りは腕力だ。

そういえば、圓丈師匠の本にも「人間最後は好き嫌いで動く」と書いてあった気がします。そうなのかもね。とても当時の大学出の秀才の言葉とは思えない乱暴な発想。しかし何処かで肝に命じなければならないかもしれない。

人間、最後は好き嫌いであり、とどのつまりは腕力なんですな。

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お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は 小日向 の養源寺にある。

確か、給料は半分になるけど東京に帰ったんよね、坊っちゃん。合わない環境からはとっとと逃げ出すべし。

でも、暴力はいけない。やっぱり。

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