だから『火焔太鼓』は「世に二つ」

その知識の量はさすが新聞。

p51
「永代橋は元禄十一年(一六九八)、五代将軍綱吉が五十歳を迎えた記念として架けられた、隅 田川の四番目の橋。赤穂浪士は吉良邸からこの橋を渡って泉岳寺へ向かった。 「噺の背景になっている落橋事故は深川八幡の祭りは八月十五日だが、文化四年(一八O 七)は雨で十九日まで延期され、かえって人気を呼んだ。一橋公の船が通るというので、役人が 永代橋を通行止めにした。船が橋の下を過ぎたところで通行止めを解除すると、群衆が一度に殺 到し、橋が落ちた。死者は奉行所調べで四百四十人、実際は千五百人を超えたという。 蜀山人の狂歌に「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」

綱吉ってのはほんと、いろんなことやっているんですよね。元禄文化が花咲いた時期でもあるからか。どっか世の中が驕奢になってる。浮かれていたんでしょうかね。

p116
『びんぼう自慢』の中で語っていることだが、まだ前座だった志ん生は明治の末ころ、初代三遊 亭遊三が神田の白梅亭という寄席でやるのを一度だけ聴いた。二十年かけてこれに工夫を加え、 比類のない名作に仕上げた。
全編が志ん生流のギャグの連続だ。女房に「お前さんは人間があんにゃもんにゃだから」とか 「お腹が減っておへそが背中に出ちゃう」などといわれた甚兵衛さん、独り言で「あんなカカア ってねえよ。ああいうのは図々しいから生涯うちにいるかも知れねえ」。 「あんにゃもんにゃ」は志ん生が好んで口にした悪口だ。

「いだてん」ブームで志ん生人気復活か、なんて言われてますがね。どうでしょ。今の人に志ん生の魅力は伝わりづらいでしょう。何せ録音が聞き取りづらいものばかり。

p118
火焔太鼓は大太鼓ともいう舞楽用の低音の太鼓 で、面の径が二メートル近く、上部に極彩色の火焔の彫刻がある。左右一対で、左太鼓は面の模 様が三つどもえで上に日の飾り、右太鼓は二つどもえで月の飾り。舞楽は舞を伴う雅楽のことで、 火焔太鼓は舞台の左右に置かれる。
貴重なものの表現はふつう「世に二つとない」だが、火焔太鼓は一対だから「世に二つという ような名器」なのだ。

なるほどね。「世に二つという名器」というのはそういうことなんだ。対になっているから、ね。

p118
昭和三十九年の東京オリンピック開会式に、同店作成の火焔太鼓が登場した。聖火台に上る階 段の下の左右に、でんと置かれた。写真で見る通り、ばかでかい代物だ。甚兵衛さん、どうやっ てこれをふろしきに包んで行ったのだろう。初代遊三の速記には「火焔太鼓の飾りの取れたやつ」とあるが、飾りがなくてもふろしきには包めない。
そこで馬生は、太鼓を大八車で運ぶことにした。志ん生は「だからおめえは駄目だっていうん だ。実物の大きさなんて、そんなことどうでもいいんだ」と長男の馬生をしかったという。ふろしきでしょえる火焔太鼓があってもいいのが、落語なのだろう。

生真面目な馬生らしいエピソード。果たして、今度の五輪では火焔太鼓が出るかな?

p131
千代田区神田駿河台四ノ一、ニコライ堂は駿河台火消し屋敷 の跡。神田の質屋のせがれが臥煙になったのは、地理的に見て駿河台の火消し屋敷かもしれない。
臥煙は十数人が一本の長い丸太を枕にして寝た。出火すると、不寝番が木づちで丸太をたたい て起こした。定火消しの火の見やぐらは高さ三丈(九メートル)だが、町火消しは二丈五尺 (七・五メートル)までに制限された。それほど定火消しには権威があった その権威をかさに、臥煙は芝居の木戸銭を払わず、無銭飲食を重ねた。のちには穴あき銭を通すワラ製の網を商家に押し売りし て嫌われた。辞書で「臥煙」を引くと、本来の意味のほかに「品性 の卑しい無頼漢をさしていう語」 とある。
臥煙が競って総身に彫った刺青は、文化・文政期(1804~30)に流行の極に達した。刺青奉行遠山の金さんが活躍したのは、 文政の次の天保だ。

火事息子、好きな噺なんですよね。親父が特に良い。
入れ墨が流行ったのはわずか200年前。今やすっかり嫌われましたがね。江戸は遠くなりにけり。ま、入れ墨はなくてもいいと思いますが。

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