『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は後者だけでいい③

相変わらず、妙に性的な要素を取り入れたがる。露悪か?

p234
「ねえ、精液を飲まれるのって好き?」と娘が私に訊ねた。
「べつにどっちでも」と私は答えた。
「でもここにはこう書いてあるわよ。『一般的に男はフェラチオの際に女が精液を飲 みこんでくれることを好む。それによって男は自分が女に受け入れられたことを確認 することができる。それはひとつの儀式であり認承である』って」
「よくわからない」と私は言った。
「飲みこんでもらったことある?」
「覚えてないな。たぶんないと思う」
「ふうん」と彼女は言って、記事のつづきを読みつづけた。

ピンクの娘なら興味津々で飲んでくれるような気もしますが、そもそもこの部分の描写、要るのか?という気がします。物語的価値もないし、そもそもなんでこのエピソード入れたか分からない。「そういう話を気軽にできちゃう僕ちゃん都会人!」というマウントなのか?

p250
「証明?」と私はびっくりして訊きかえした。
「あなたが私と寝たがっているということについて、何か私が納得できるようなこと」
「勃起している」と私は言った。
「見せて」と娘は言った。
私は少し迷ったが、結局ズボンを下ろして見せてやることにした。これ以上の論争をするには私は疲れすぎていたし、それにどうせあと少ししかこの世界にはいないのだ。十七歳の女の子に勃起した健全なペニスを見せたからといって、それが重大な社会問題に発展するとも思えなかった。
「ふうん」と私の膨張したペニスを見ながら娘は言った。「それ触っていい?」
「駄目」と私は言った。「でもこれで証明になるんだろう?」
「そうね、まあいいわ」
私はズボンをあげてペニスをその中にしまった。

だからこのくだり、要るの?なんなの?
不愉快でもないが不可解。膨張したペニスを見せることに、なんの意味が?比喩か?でも一体なんの?
こういう風に不可解な気持ちになることが目的なのだとしたら大成功していますが、いっちょん分からん。

p270
洗濯屋の中では頭のはげた主人が気むずかしい顔つきでシャツ にアイロンをかけているのが見えた。天井からアイロンのコードが太いつたのように何本か下がっていた。主人が自分の手でシャツにアイロンをかける昔ながらの洗濯屋なのだ。私はなんとなくその主人に好感を持った。そういう洗濯屋ならたぶんシャツ の裾に預り番号をホッチキスでとめたりはしないだろう。私はそれが嫌でシャツをクリーニングに出さないのだ。
 洗濯屋の店先には縁台のようなものが置いてあって、その上に鉢植えがいくつかな らんでいた。私はそれをしばらく眺めていたが、そこに並んだ花の名前はひとつとしてわからなかった。どうしてそんなに花の名前を知らないのか、自分でもよくわから なかった。鉢の中の花はどれも見るからにありきたりの平凡そうな花だったし、まと もな人間ならそんなものはひとつ残らず知っているはずだという気がした。軒から落 ちる雨だれがその鉢の中の黒い土を打っていた。それをじっと見ているとなんとなく 切ない気持になった。三十五年もこの世界に生きていて、私にはありきたりの花の名前ひとつわからないのだ。

あと数時間で死ぬことになったときに、クリーニング屋の良し悪しだとか、鉢植えの花の名前だとかが気になる。それはきっと、ありそうな気がします。ナイナイ・アルアルですね。

静謐な時間なのでしょう。あと数時間で死ぬことが分かっていてする散歩は。だからこそ、色々気付いてしまうんでしょうね。

p277
しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生 を辿るだろうという気がした。何故ならそれが――その失いつづける人生が――私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、 どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。
(中略)
しかしそれでも私は舵の曲ったボートみたいに 必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。
私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。
人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?

四畳半神話大系と同じテーマですね。深く共感。失い続けるが同時に得続けるのも人生ですが。お気楽にいきましょうよ。

p385
僕はどちらかというと限定的なヴィジョンの中で暮している人間なんだ。その限定性の正当性はたいした問題じゃない。どこかに線がなくてはならないからそこに線があるんだ。でもみんながそういう考え方をするわけじゃない」
「そういう考え方をする人でもその線をなんとかもっと外に押し広げようと努力する ものじゃないかしら?」
「そうかもしれない。でも僕はそうじゃない。みんながステレオで音楽を聴かなくちゃいけないという理由はないんだ。左側からヴァイオリンが聴こえて右側からコントラバスが聴こえたって、それで音楽性がとくに深まるというものでもない。イメージ を喚起するための手段が複雑化したにすぎない」
「あなたは頑なにすぎるんじゃないかしら?」
「彼女も同じことを言ったよ」
「奥さんね?」 「そう」と私は言った。「テーマが明確だと融通性が不足するんだ。

死ぬとわかった数時間前にする話かね。セックスして、人生観について話して。説教みたいなこと言って。それが人生なのかしら。

最後の最後まで読んでも、ハードボイルドワンダーランドのことばかり頭に入って、世界の終わりのことはまるで分りませんでした。何かの比喩なのかもしれないけどね。誰か頭のいい人の考察を聞いてみたいね。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする