『トーニオ・クレーガー』感想_2 はじめてのトマス・マン

トーニオ・クレーガーは前回でお終い。

しかし次のマーリオもなかなか良いんだ。

『マーリオと魔術師』

位置: 1,511
宿を替えてよかったと満足していたし、実際のところ、心地よく過ごすための道具立てはすべて 揃っていた。
にもかかわらず、どうしても心の底からくつろぐことはできなかった。ひょっとすると、宿を替える羽目になった百日咳のばかばかしい一件が、やはり心に引っかかっていたのかも知れない──実をいうと私は、そういうどこにでもある人間的な欠点、つまり、疑うことも知らずに権勢を振りまわすことや不正、へつらいといったものにぶつかると、なかなか乗り越えられないたちだ。いつまでも心を占められ、あれこれ考えては腹を立ててしまう。だがこれはごくありふれたわかりきったことなのだから、いくら考えたところでどうなるものでもないのだ。

分かるなぁ、人間的な欠点にぶつかると乗り越えられないの。
あたくしもいちいち腹を立ててしまう。

位置: 1,630
そうしていれば! そうすれば、あのぞっとするようなチポッラに会わずにすんだものを。とはいえ、どこかほかへ行こうにも、いろいろ事情が重なってうまくいかなかった。不愉快な状態から抜け出せないのは怠惰のせいだといった詩人がいるが、私たちの頑固さもそれで説明がつくかもしれない。

怠惰、ねぇ。そうかもしれないけど。
でも怠惰こそ人間的だったりしない?克服するのは立派だけどさ。

位置: 1,735
年齢不詳。だが、決して若くはない。鋭いがやつれた顔、刺すような目、 皺 が寄るほど固く結ばれた唇、チックで黒く固めたちょび髭。下唇と 顎 の間にはいわゆる皇帝髭をたくわえ、衣装はといえば、夜の盛り場に出没する一癖あるしゃれ者とでもいった風情だ。ビロードの 襟 とサテンの裏地のケープのついたゆったりしたマントに身を包み、白い手袋をはめた手でぎこちなくマントを押さえていた。白いスカーフを首に巻き、シルクハットをあみだに深く被っている。
思うに、イタリアほど十八世紀がいまなお息づいていて、この時代特有の山師や大道芸人といった手合いが生き残っているところはないのだろう。

想像掻き立てられるなぁ。18世紀がなお息づいている、か。

位置: 1,849
ここでは人々は話すこと聞くことを楽しみ──また聞きながら相手を評価する。どんな話し方をするかが、その人間の個人的な価値を測る尺度だからだ。ぞんざいで拙劣だとばかにされ、優雅で巧みだと尊敬される。だからこそ、つまらない人間でも、人に与える印象が大事だとなれば、しゃれた言い回しを心がけ、入念に準備する。道徳的、美的な判断が独特に入り混じった意味でイタリア人が言う「 感じの良い」タイプの人間ではまったくないにもかかわらず、少なくともこの点ではチポッラは、間違いなく観客の心をとらえていた。

弁の立つやつほど尊敬される、ってのはどこも一緒。
しかしノワールってのかね。チッポラのような人が観客に愛されるのは分かる。

位置: 1,910
「いい加減にしろ! トッレをからかうんじゃねえ。おれたちみんなこの町のもんだ。だからよそのやつに馬鹿にされるのが我慢できねえんだ。そこにいるふたりだって仲間だ。あいつらは学者先生じゃないかもしれねえが、ごたいそうにローマを 褒めそやしている誰かよりずっとまともな人間よ。ローマがなんだってんだ、てめえがこしらえたわけでもねえくせに」
胸のすくようなせりふだった。この青年はなかなか手強い。

いい啖呵だね。「ローマがなんだってんだ、てめぇがこしらえたわけでもねえくせに」ってね。「凱旋門も大阪城も、つくったのはみんな大工」ってね。

位置: 2,237
「ご主人、奥さんを呼んで下さい。さあ!」
チポッラの声。アンジィオリエーリ氏は弱々しく呼びかけた。
「ソフローニア!」
氏はそれから何度も呼んだ。だが、妻がどんどん遠くへ行ってしまうので、片方の手を口もとでメガホンのように丸めて名を呼びながら、もう片方の手で手招きさえした。だが、妻に対する愛情と夫としての義務から発せられた 哀れな声は、遠ざかっていく夫人の背中に空しく消えていった。 恍惚 の表情を浮かべた夫人の耳には、もう何も入らないようだった。手招きしているせむし男のほうへ、出口へと、滑るような足どりで夢遊病者のように中央通路を進んでいく。チポッラさえその気なら、世界の果てまでもついていったろう。

滑稽だけど悲劇的。

位置: 2,248
「ご主人、 謹んでここに奥さんをお返しいたします。男性のもてるあらゆる力を使って、ご自分の宝をお守り下さいますよう。この世には理性や徳よりも強い力がございます。しかもその力は度量が狭く、めったなことでは 摑 んだものを手放しません。どうかくれぐれもご用心を」

チッポラ、いいねぇ。ノワールだ。

解説

位置: 2,532
ゲーテは『若きヴェーアター(ウェルテル) の悩み』について、「一生に一度でもこの『ヴェーアター』が自分のために書かれたと感じるような時期がなかったとしたら、それは不幸なことだろう」と言ったが、この言葉はそのまま『トーニオ・クレーガー』にあてはまるだろう(事実、マンはトーニオを「私のヴェーアター」と呼んだ。)

ゲーテのウェルテルも買ったまま積んであるなぁ。

位置: 2,564
数多いトーマス・マンの作品のなかでも、この『トーニオ・クレーガー』ほど、日本の作家たちに大きな影響を与えたものはない。吉行淳之介や三島由紀夫、北杜夫、辻邦生といった作家たちが、さまざまな場でこの作品について語っている。
最初の翻訳(実吉捷郎訳) が出たのは1927年だが、長い間この作品は私小説のように受け取られていた。それは、自己否定に酔うといったナルシズムや、トーニオがリザヴェータに語る言葉のなかに、芸術のために私生活を犠牲にすることにたいする弁護、つまり日本的な私小説に相通じるととられる部分があるからだ。だが、私生活と作品のあいだに距離のないわが国の私小説とは、決定的なところで違っている。その違いを明確に表現しているのは、三島由紀夫である。

確かにどこか金閣寺っぽいところある。

位置: 2,613
これが物語の 白眉 であり、この作品がファシズムの心理学と言われる 所以 でもある。いかに頑強に抵抗しようと、抵抗するだけでは勝つことはできない。ファシズムの暴走を止めるためには、何かを「しようとする」、つまり、対抗するたしかな世界観を持ち、積極的で具体的な行動を起こすことが必要なのだ。

チッポラから学ぶファシズム。
ちょっと言いすぎな気もするが、でもチッポラの演説は迫力ある。

位置: 2,668
『トーニオ・クレーガー』は、わたしにとって人生で初めて出会ったドイツ文学というだけでなく、リアルタイムで出会った初めての「青春文学」でもあった。その後、福永武彦『草の花』、三島由紀夫『午後の曳航』、つかこうへい『熱海殺人事件』を加えてわが「青春文学リスト」は完結し、外国文学は一冊も加わることがなかった。それほどに本書は絶対的な存在だったのだろう。

すごいリスト。

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