『姑獲鳥の夏』感想② 欲望の前に知覚は無力

薄ら寒いんですよ、読みながら。怖い。

位置: 302
「念を残して死ぬから無念なんじゃないのか?」 「違うよ。死人がものを考えられる訳がないだろう。死ねばそれまでさ。生きている人の方が、無念だったろうなと考えるのだ。凡そ怪異は 遍く生者が確認するんだ。つまりね、怪異の形を決定する要因は、生きている人、つまり 怪異を見る方 にあるということだ」

位置: 325
個体の愛情は遺伝子の命令に勝てはしない。いや、猿はそもそも人間のいうところの愛情なんてものは持ち合わせていない。それが生物としては当たり前のことなんだ。だが人間は違ってしまった。種を保存することが唯一無二の目的でなくなってしまったんだ。それを文化と呼ぶか、知性と呼ぶか、人間性と呼ぶか──それは勝手だが、 兎 に 角、万物の霊長の 奢りは、 もうひとつの価値 を構築してしまった。

位置: 450
「仏さんの裁量というのは随分と甘いもんだなおい。俺ならそんな奴ァ許さねエぞ。極刑にするところだ」  木場が 濁声 でそういうと、京極堂はにやりと笑った。 「いや、これは仏教の手口ですよ、旦那。 耶蘇教のように融通の利かない固い構造を持った宗教、主に遊牧──侵略民族の宗教は、生き残るためにある部分で好戦的にならざるを得ない。だから、侵攻していった先の地場の信仰を徹底的に弾圧する。完膚なきまでに叩きのめす。その結果、土着神は 悪魔 に、集会は 奢 覇 都 に、祭祀は黒 弥 撒 に変形される。結局後世には 反 基督 という形でしか残らない。

この京極堂の語りは全く明確で素晴らしい。なるほどな、と思わせるだけの説得力とそれを裏付ける教養が見え隠れしていますね。漢字が多いのが中二病ぽいですけどね。

位置: 479
「そもそも仏教は、愛という観念は捨てるべきだと説いている。愛は即ち執着──といい換えることが出来るからね。 凡百 執着を捨てることが唯一の 解脱 ── 如来 へ至る道なんだ。だから訶梨帝母の説話も、本来であれば子供に対する異様な執着を捨てよ、と諭したと解釈する方が正しいのかもしれない。凡てを捨て去って仏道に 帰依 すれば、一切の 罪業 は滅却し、悟りが開けるという──つまり 親鸞 のいう、善人なおもて成仏す、いわんや悪人をや、の境地だね」

仏教のすごいところだね。仏の教えにすら執着を許さないのかしら。トートロジーのような気もする。

位置: 2,093
「関口君。君は慥かに死骸を見ているんだよ。 知覚しなかった だけだ」
何だって?  部屋がゆっくり回り出した。世界が歪む。
「君の、この建物に対する描写は、微に入り細を 穿ち、実に詳しかった。僕は君の話を聞くだけで明確に建物の有様を脳裏に再構成することが出来た。実際に訪れてその正確さに驚いたくらいだ。だがただ一箇所、どうしても不明瞭な部分があった。書庫の床だ。扉、壁や書架、天井、脚立に机、ベッドとサイドボード、十字型の蛍光灯──いずれも明快だ。ただ床だけは漠然としていて、君の言葉からは全く摑めなかった。広い部屋に入って床が視野に入らないことはあり得ない。ならば意識、無意識に 拘らず、君は 見ているのに語らなかった ことになる。これは変だと思って考えた。そしてたった一言、君が床について語った 件 を思い出した」
京極堂は懐から手を出すとさっき妹がしていたように顎を触った。得意のポオズだ。
「君は果物ナイフのようなものが光ったといっていたじゃないか。そんなものが落ちている訳はないんだ。それは 藤牧の脇腹に突き刺さっていたナイフだよ」

この小説が推理小説ではなく怪奇小説であるとする論拠の一番はここ。「死骸を見てはいたけど知覚しない」なんてことを許したら謎は成立しない。それがトリックならまだしも、普通に知覚しないだけなんて、そんな馬鹿な。

位置: 2,176
「刺激って──兄さん何をしたの?」 「逆行催眠に近い状況を作り、記憶を過去に飛ばしたのだ。想像妊娠のややこしいところは心──意志や魂と呼んでもいいが、その心の方が無意識に強い願望を持ち、脳がそれを受けて心を騙す、という狂言詐欺みたいな二重構造にある。

安倍晴明の流れをひき、記憶を飛ばしたり出来る古本屋・京極堂。その常人を超越した度合いが凄まじすぎる。

位置: 2,197
淫猥 な快楽を欲していた訳ではない。僕が極めて特殊な想像妊娠といった訳はそこにある。彼女は妊娠を強く望んだのではなく、過去の、夫との性交渉の事実をこそ強く望んだのだ。つまり、愛情交歓の証拠が欲しかったのだ。実際にはそれはなかった訳だが、妊娠することで 遡って過去を改編 しようとした訳だ。

そしてこの、エゲツなくも悲しい話。入り乱れた事実と狂言。ぐっちゃぐっちゃで分けわからないけど、とにかく凄くエログロでよく出来ているのはわかる。圧倒的な心情描写。

「人間は見たいものを見て、信じたいものを信じる」とはカエサルの弁ですが、まさにそういうこと。行き過ぎた熱望の前に知覚は無力なわけですな。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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