『将棋400年史』はライトファンでも読めた1

すごくすごくライトな将棋ファンというかただ暇つぶしにやるだけの人なのですが、歴史や背景を調べるのも好きなので、試しに読んでみました。将棋にも歴史あり。

位置: 110
これまで紹介した将棋はすべて、取った駒は再使用しないものばかり。日本でプレーされている日本の将棋のみ、取った駒を持ち駒として使うことができる。ここが他の国との、もっとも大きな違いだ。

東アジアを中心に将棋的なものは多々あるが、日本の将棋を将棋足らしめているのは「取った駒を使える」ことなんですね。そのため非常に難しい。可能性が無限になる。

位置: 119
少なくとも11世紀の初めごろには、将棋は僧や民衆の間で親しまれていたと推測される。

結構古いんですね。民衆に親しまれるのが11世紀ですよ。

位置: 132
現在の、相手から取った駒を再使用する将棋が盛んに指されたのは 16 世紀の終わりごろ。室町時代から江戸時代に変わっていくあたりからだ。

現在のスタイルになったのが戦国時代手前くらいから、ってことか。秀吉が囲碁を愛したという話を聞いたことはありますが、将棋もだったのかしら。

位置: 137
囲碁は将棋よりも数世紀前に伝来し、公家や僧侶の間で教養の一つとして重要視されていた。そのため広く普及して、次第に武家や裕福な商工業者、農民などにも親しまれていく。

やっぱり囲碁のほうが格式高いんですね。落語には囲碁も将棋も出てくるけどね。

位置: 141
将棋も次第に民衆に広まりつつあったが、囲碁と比べると、芸事としては高く評価されていなかった。ようやく、 15 世紀半ばころから公家の中でも熱心に将棋を指す者が現れ始め、位置づけも次第に高まっていく。

やっぱり囲碁のほうが格は上のような気がします。

位置: 166
江戸時代の石(こく)という単位は、成人が一年間に消費するお米の量。扶持とは、一人一日、玄米五合を標準として、その一年分を米、またはお金で給与として支払ったもの。

将棋とは関係ないけど、勉強になる。

位置: 171
家康は将棋よりも囲碁が強く、秀忠は将棋を好んでいた。

頑張れ秀忠。
どうでもいいけど、あたくしが好きな書物では、たいてい秀忠を優秀なように描いてますね。

位置: 173
将棋の指南役の大きな仕事は、将軍が観戦する前で芸事を披露すること。これが後々まで伝わる「御城将棋」の始まりで、一年に一度、江戸城の御黒書院で対局が行われた。御城将棋が開かれる日が、 11 月 17 日と決められたのは八代将軍徳川吉宗のとき。日本将棋連盟は昭和 50 年(1975)に 11 月 17 日を「将棋の日」と定めるようになった。

11月17日。将棋の日。由来は御城将棋。覚えておきましょう。

位置: 218
興味深いのは「壺蘆圃雑記」に宗古と由井正雪との対戦譜が残っていること。正雪は軍学者で慶安の変の首謀者として名高い

三代家光ののち、浪人が街にあふれ治安がよくなかった世相を鑑み、政府転覆をたくらんだ慶安の変。その油井正雪の対戦譜。興味ありますね。

位置: 1,077
江戸時代初期の初代大橋宗桂名人以来、名人位に就いた者は、死ぬまで名人を名乗ることができた。この時代の家元の権威は絶大で、それには誰も異議を唱えることはできない。そういう時代で、古くから守られてきた伝統だった。このことは将棋に限らず、他の世界でも同じような事柄はあるだろう。しかし、それによる弊害もある。いくら名人をしのぐ実力を持った者が現れたとしても、前の名人が去らないと名人を名乗ることは許されない。関根は身を持ってこの悲哀を味わっている。同じ時代に生きた、小野五平が長寿だったので、名人位が回ってきたときには自身は既に盛りを過ぎていた。これでは名人=実力最強とは言えない。関根は、まな弟子たちに自分と同じような苦しみを味あわせることはしのびないと考え、将棋界始まって以来の大改革を決断する。それが実力による名人制度だ。

この辺の身を着ることでこそなしえる制度改革というのはどの世界にも確実にある。ただ、将棋の場合はやるべき人がやるべきことを成している印象があります。よほど政治とかよりも。

位置: 1,096
関根は二年後に現役を引退。一世名人の制度は十三世名人をもって最後とすることになった。

近代将棋の父こと関根金次郎。偉いお人じゃ。

つづく。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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