『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』はツッコミづらい 4

この本は塙さんのボケではないということですね。

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僕は下ネタも漫才におけるボケの一つだと思っているので、他のボケと同じような雰囲気で言えば何も問題はないと思っています。もちろん、程度はありますが。

ナイツは結構ね、入れてくるもんね。
たまにドキッとするようなものも。あそこも好きなところだな。

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下ネタや毒は、どんなにうまくやっても、笑ってしまった人に小さな罪悪感を植えつけるじゃないですか。「私、こんな下品なネタに笑ってしまった」と。そんな自分を認めたくないから、ジャッジするときに「否」をつける。もちろん、僕はそれでいいと思っています。
誰しも黒い部分を持っていて、そこを解放してあげることもお笑いの役割のうちの一つだと思っているのですが、嫌な気分にはなって欲しくない。だから、罪は芸人になすりつけてくれていいんです。ただ、そういうスタンスのコンビは、やはりコンテストには不向きだと思います。

自らを「不向き」と断する、まさに言い訳。
落語もね、突然、変なマクラ入れる人いますけどね。あれ、やっぱりちょっとシコリが残るもんね。

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楽屋話は、若い人が集まる小さなライブだと「ここだけの話」感が出るので、異常なほどウケます。
三四郎の小宮(浩信) は特にそういう癖がついていて、すぐ「あなた、今、笑うところですよ」みたいなことを口走る。お客さんも直接話しかけられると嬉しいものだから、つい笑ってしまうのです。
関西ではそうした行為は「客をいらう(イジる)」と呼んで、年配の芸人ほど嫌います。本当の芸が身につかないからです。
劇場にわざわざ足を運んでくれるお客さんは、笑うことに前向きです。お金と時間をかけて観にきているわけですから、少しでも笑えるところがあったら笑ってくれます。

噺家でも、楽屋話を平然とマクラでする人、いますね。嫌いじゃないけど、「内輪ネタ」だなと思います。誰々師匠と誰々師匠がこんな話してた、なんて、今日来たお客さんに向けた話じゃない。
リピーターだらけの回ならいいけどね。始めてきた!という人も笑わすなら、やっぱりそういう話は避けるべきじゃないかな、なんて毎回思います。

位置: 1,671
落語界で新作が不当に 貶められているのと同じように、M-1もナニワのしゃべくり漫才こそが漫才で、突飛な発想の関東言葉の話芸は漫才とは似て非なるものだという向きは当然あると思います。
ただ、繰り返しになりますが、言ってみれば、M-1は「吉本流」の大会です。したがって、他流派にも門戸は開きますが、ルールはうちの流儀のものでいきますというのは当然だと思います。吉本はそうは言っていませんが、むしろ、そう言ってもいいぐらいだと思います。

ここが本当の言い訳。これが、まぁ、関東芸人が勝てない理由ですね。
だったら仕方がない、と諦めるしかない。少し前の大会で、審査員がことごとく西の人間ばかりで、「隠さなくなったな」と思った記憶がありますが、別にそれでいいわけです。志らく師匠や塙さんが審査員に必要かしら。

位置: 1,778
彼らの漫才でもっとも特徴的なのは、山ちゃんのツッコミです。
山ちゃんは、しずちゃんのボケをしばらく泳がせます。しずちゃんが「山ちゃん、お医者さんやって、私、火を怖がるサイやるから」という状況でも、すぐにはツッコまず「メス」「メス」と指示し続け医者役を全うしようとする。  そして、ようやく「だめだ、俺、こんな状況生まれて初めてだ……」と回収する。ボケを溜めておいて、最後、総取りしてしまうのです。

黄色のハイライト | 位置: 1,783
「ナイスざわざわ」 「やばい、涙で明日が見えない」 「あれ、左から妖気を感じる」
これらの言葉からもわかるように、山ちゃんは決してしずちゃんを攻撃しないんですよね。そこがおかしいんです。関西系の男女コンビなら絶対、アホだの、ボケだの、ボロカス言われるパターンです。
山ちゃんは終始、しずちゃんをなだめているだけです。もっと言えば、あやしています。音楽で言えば、子守唄のようでした。
ツッコミというのは、相手を貶めることではありません。どんな方法でもいいから、笑いに転化させればいいのです。それは優しい言葉でもいいし、動きでもいい。スリムクラブのように「間」でもいいのです。

すごいよね、南海キャンディーズ。吉本はあれもありなんだもんね。
やはり日本のお笑いの筆頭ですね。

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博多華丸・大吉はツッコミの大吉さんがネタを考えているのですが、ボケの華丸さんはじつにのびのびやっています。ともすれば、華丸さんのほうがネタを考えているのではと錯覚してしまうことすらあります。ネタを書くほうと書かないほうの関係としては、それが理想だと思います。

あのコンビもいい。実に生き生きとしている。
華丸先生の「おじさん」のボケが大好きすぎるってのもありますけどね。

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ジャズのクライマックスはアドリブです。
オードリーの漫才も、まさにそうでした。一本目のネタで春日君が、思い切り嚙みました。若林君はすかさず「嚙んでんじゃねえよ!」と頭をはたきました。これだけでは終わりません。春日君は「おまえが何とかしろよ!」と応酬。さらに若林君は「できねーよ。これなんとかできたら、もっと最初から来れるだろ決勝に!」とやり返します。
見事です。実際、ここがいちばんウケていました。M-1決勝という大舞台で、これだけの大きなミスを、こんなに大きな笑いに変えたのは後にも先にも彼らだけです。
不規則で、不調和なジャズ漫才だったからこそ、最大のノイズさえ漫才にしてしまったんです。

「関西のお笑いは『ロック』、根底に怒りがある」からの「オードリーはジャズ」です。確かに。ロックの大会でジャズやってるんだから、そりゃ勝てない。でもインパクトは残りますね。

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M-1では、キャラ漫才以外にもギャグやモノマネはマイナス要素になるという共通認識があります。それらは芸ではない、と。

最近、歌を歌ってのど自慢する若手が多くて辟易していますが、多分それらもこれに入るマイナス要因ですよね。

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感情を煽り立てるのです。演者もそれに乗っていきます。  オードリーは「敗者復活」「初出場」だけでなく、「非吉本」で「非関西」だったので、シンデレラストーリーとしても完璧でした。これだけそろったら、ロイヤルストレートフラッシュですよ。
ただ、最終決戦のネタは、第一ラウンドほどうねりませんでした。思えば、南海キャンディーズもそうでした。
二組のネタは、他のコンビは真似できません。いずれもボケのキャラ前提のネタだからです。個の強さを生かした漫才は、もろ刃の剣です。特にこういうコンテストのときは、二本目のインパクトがどうしても薄れるし、既視感にとらわれやすいからです。
また、二組とも一本目のネタの完成度が高過ぎたんでしょうね。改めて、M-1で二本ネタをそろえることの難しさを痛感しました。

今回優勝したミルクボーイは、キャラ前提ではないものの、全く同じ構成の漫才でした。新人だったのが功を奏したのか。従来だったら飽きられていてもおかしくなかったと思います。面白すぎたのかな。

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カミナリの漫才も、出場を繰り返せば繰り返すほど評価を落とす怖さがあります。  オードリーが見事だったのは、その登場以上に、引き際でした。オードリーは〇八年、初出場で準優勝したのを最後に、きっぱりM-1から身を引きました。若林君は、自分たちのことを知り過ぎるくらいに知っていました。

オードリーべた褒め。そういう俯瞰出来る目線も、彼らが好まれる理由なんでしょうね。

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それに対して最近のツッコミは、僕がせっかくわけわかんないことをやっても「塙さん、さっき楽屋で、すっごい難しそうな本を読んでましたよね」みたいなことを平気で言ってくる。
油断していると、ツッコミでボケを引き立たせるのではなく、ツッコミがボケを潰しにくる。「ツッコミが華」とはいえ、ボケづらい世の中になったものです。

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僕は本来、ずっとボケていたいタイプです。メッシのようにボールが来るまでゴール前でずっと待っていたい。余計なことはしたくないのです。

最後にちょっと、ボケ士としてのプライドをのぞかせつつ。

いやー、名著だったなー。

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