『違いをあらわす「基礎日本語辞典」』感想 読むのも難しいが、作るのはもっと難しいね

角川ソフィア文庫は気付けば結構読んでいますね。

位置: 85
まえがきにかえて ─日本語の骨格をもっとも骨太にとらえた本
サンキュータツオ

自分で自分のことをよく理解できていない人が多いように、日本人は日本語のことをよく理解できていません。

いきなりタツオさんのお話から。しかし日本語はよくわからんのですよ。肌で覚えてるからね。そういえば娘たちもいつの間にかしっかり話ができるようになりましたね。

位置: 199
「余る」の場合は、必要量・許容量以上にあるから多すぎる分だけ「余る」で、少なすぎれば「余らない」。「残る」は、必要量とは関係なしに、任意に時間や量を区切り、その時点でまだ元のビンにあれば、すべて「残る 残っている」である。「どのぐらい残しておこうか」とは言えるが「どのぐらい余しておこうか」とは言えない。「余す」は調節がきかない。

そう言われればそうなんだけど、っていう明文化する必要性を感じてこなかったものを改めて読むと面白いね。確かに「どれくらい余すか」って話はしない。

位置: 213
「私は帰らないで残ります」「しみが残る」「後世まで残る名作」など、「余る」に置き換えることができない。

位置: 214
「遺産が残る」などは「余る」に言い換えることができるが、「残る」の場合は、〝父が生前にこしらえた財産が、時の変遷の中で増えたり減ったりし、父の死という基準点においてなお存在している〟の意。状況設定と基準点が判断の物差しに使われる。一方、「遺産が余る」は、〝対象たる遺産額を遺族に割り振っていった場合、半端が生じる〟の意。相続権利者という必要量が物差しに使われている。 「ご飯が残る/余る」「金が残る/余る」など、物品の場合はどちらも成立するが、基本の発想に差が見られる。「クラス会をしたとき金が余った」は、徴収総額(対象)と必要額(支払額)との対比であるから、「余る」が可能だが、「去年クラス会をしたときの金が、まだ余っている」はおかしい。

物差しが違うのは分かるけど、どう違うのかを測るのはこれは大変。
一つ一つの事例を腑に落ちるまで分解する必要があります。大変な作業だ。

こういう作業をしていると、だいたいあたくしは自分が世間とズレていることを発見するんですよね。言語感覚がズレていたりする。

位置: 249
「著しい」は、その有様が明瞭にとらえられるような事態にしか使えないが、「はなはだしい」は外面に現れない事柄でも、極限の状態にあればかなり自由に使える。そのため「はなはだしい不運の連続」のような例は「著しい」に換えることに無理があるが、「激しいダンプの往来によって、路面のいたみははなはだしい」なら「著しい」に換えても一向に無理はない。「はなはだしい」は〝いたむ率が度を超えて高いこと〟、「著しい」は〝目で見てはっきりとわかるほど、いたんだ結果が現れている〟のである。

目で見えるかどうかが「著しい」と「甚だしい」の違いなんだそうな。言われないと分からないね。

位置: 309
さて、「いつも」は、次に述べる「常に」とは違って、〝時の切れ目がなく年中休みなく同じ状態が続く〟という純粋に客観的状態を述べた語ではない。「いつも」は〝話し手が対象を認識するときは必ず決まって〟という話し手の主観でとらえた判断である。

主観が入るとかってのも、一つの物差し。これを延々とやる。作る方も大変な本だ。読むのも大変だしね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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