『わたしの名は赤(上)』感想 これはちと無知には難しい

導入はめちゃめちゃ面白そうだったんですがね、結構難解でした。

1591年冬。オスマン帝国の首都イスタンブルで、細密画師が殺された。その死をもたらしたのは、皇帝の命により秘密裡に製作されている装飾写本なのか…?同じころ、カラは12年ぶりにイスタンブルへ帰ってきた。彼は件の装飾写本の作業を監督する叔父の手助けをするうちに、寡婦である美貌の従妹シェキュレへの恋心を募らせていく―東西の文明が交錯する大都市を舞台にくりひろげられる、ノーベル文学賞作家の代表作。国際IMPACダブリン文学賞(アイルランド)、最優秀海外文学賞(フランス)、グリンザーネ・カヴール賞(イタリア)受賞。

ノーベル文学賞作家。
オスマン帝国の本でオススメされていて、面白そうだったんで読んだんです。上下巻。長いは長いけど、何よりちょっと難解で冗長でね。美術やイスラム古典への造詣が深くないと楽しみきれないでしょうな。

位置: 133
〈優美〉殿がかくも憤激する下手人とは、いったい何者なのか、なぜ唐突に彼を亡き者としたのか。皆様方には、どうかそういう疑問を持っていただきたいのです。――おやおや、「世間には 唾棄 すべき人殺しがあふれている、お前を殺したのがどいつかなど、突き止められるわけもない」、そう仰いますか? ではいまのうちに忠告して差し上げましょう。わたしの死の背後には、わたくしどもの宗教や伝統、世の中の在りように対する、唾棄すべき暗闘が横たわっているのだ、と。目をよく見開いて、理解なさい。皆様方が疑いも持たずに送るその暮らしを。

いきなり優美さん死んでます。『らくだ』みたい。

この下手人を巡る謎でもって、ずっと上下巻引っ張るんだから、まぁ、腕があるというかなんというか。筋は面白いんです。

位置: 468
「まっことベフザードの作よ。署名など必要もない」
そう、それをよく心得ていたベフザードは、作品の隅っこに絵に隠れるようにして署名を残すことさえしなかった。老齢の名人によれば、ベフザードのやり方にはある種の羞恥心と遠慮があるのだそうだ。真の名人芸とは、他の追随を許さない作品を描き、なおかつその玄妙さの中に作者が誰かを悟らせてしまうような痕跡を一切、残さないことなのだと、その名人は教えてくれた。

奥ゆかしいね。トルコにもそういう美学があるんだな。人類共通か。

位置: 1,100
義弟のハサンは独り身で、税関で働いていましたが、家に入れるお金が増えると家内でも我が物顔をするようになっていきました。家賃を払えそうもなくなったある冬のこと、義父と義弟はそれまで家事を任せていた奴隷娘を市場へ連れていくと、さっさと売り払い、代わりにその娘がしていた炊事やら洗濯やらをするようわたしに命じました。それどころか、市場やら商店街へ出かけていって、買い物をしてこいとまで言ったのです。わたしは、「わたしがそんな雑用をする女だと思うの?」とは口に出さず、ぐっと堪えて何でも言われたとおりにしました。けれど、夜ごと 閨 へ連れこむ奴隷女のいなくなったハサンが、わたしの部屋の扉をこじ開けようとしたときは、さすがにどうすればよいかわからなくなってしまいました。

奴隷が当然に慰みものとして機能していた時代の話ですね。閨(ねや)なんて使わないね、今は。このシェキュレの言葉も人権無視の時代から生まれたもので、現代人からみるとちょっとぎょっとしますね。

しかしこういう描写を現代人の価値観に阿らずに書く、というのも凄みかと。

位置: 1,263
あるとき、偉大な西欧の画人が二人、あちらの国の草地を歩きながら、名人芸とは何ぞや、絵とは何ぞやと話し合っていると、ふいに目の前に森が現れたのだとか。 上手 の名人の方がもうひとりに向かってこう言ったそうだ。
「新しい様式で絵を描くのにはなんとも大変な技がいるけれども、その様式でこの森の木の一本でも描いてごらんよ。君の絵に感動した者がやってきて、その木を他のと見分けられるようになるんだから」
わたしはご覧の通りの貧相な木の絵ではあるが、この手の考えのもとに描かれたのではないことを、神に感謝している。別段、西欧のやり方で描かれて本物の木と勘違いされ、犬どもに小便をひっかけられるのが怖いからではない。わたしは一本の木としてではなく、木という意味としてありたいのだ。

名人上手論。木ではなく木という意味である。

問答のようですが、こういうのも東西問わずにあるんですね。こういう議論は時に極端が偉くなったりするから注意が必要だと思ったり。

位置: 1,632
「様式と呼ばれるもののはじまりが絵師個人の瑕瑾に求められるとして、三番目の逸話に従えば、その瑕瑾は作中に密かに織りこまれた絵師の想い人の面差しや瞳、微笑みに源を発するということでしょうか?」
カラ殿が慇懃な物腰でそう言った。
「違うよ」
わたしは確信を持って得意げに答えてやった。
「巨匠が作品に想い人の面影を織り交ぜたとしても瑕瑾とはならない。結局はそれが掟となるのだから。だって、ときが経てば美女を描く者はみな、巨匠に倣ってその娘の顔を描くようになるだろう?」

むーん、絵の嗜みのない人にとっては、机上の空論、詭弁、議論のための議論にしか思えず。

しかしそういうもんだろうか。落語も一緒か。

位置: 1,970
大名人ミラクによれば、盲目は怖れるにあたらず、それは生涯を神の美に捧げた細密画師に、神が最後に与える幸福なのだそうな。曰く、細密画とは神が世界をどのようにご覧になられるのかを探究することである、よってその比類のない情景はただ、厳しい切磋琢磨によって目を酷使し、身も心も擦りきれた末に辿りつく盲目のはてにこそ想起されるものなのだ、と。つまり、神がご覧になる世界は、唯一、めしいた細密画師の記憶からのみ窺えるというのです。

極端がでた。いや、そういう結論になるのよ、こういう議論って。
超越幻想というかね。人類の悪い癖だと、あたくしは思いますね。

位置: 3,358
――そういえば、カラのはどんなかしら?
ときおり見る夢の中で、苦悶に身をよじる夫があれを見せることはありました。可哀想な夫は、サファヴィー朝の兵士たちに槍で突かれ、矢で射抜かれた血まみれの身体を起こして懸命に歩こうとしているのです。そうしてわたしたちの方へ近寄ってくるのだけれど、その間には大きな河が横たわっています。夫は血と苦痛に苛まれながらも向こうの岸からなにか言おうとしています。そして、ふと見ると、前が大きくなっているのです。もし浴場で耳にしたグルジア人の新妻の説明や、老婆たちの「ああ、それくらいになるね」という答えが正しいのであれば、夫のあれはあまり大きくなかったということになるけれど、カラのものが夫よりも逞しくて、そう、昨日シェヴケトに託した紙切れを受けとったとき布帯の下にちらりと見えた大きなものがあれなのだとしたら――ええ、確かにそうだったわ――わたしの中に入らないかもしれない。入ったとしてもひどく痛いのではないかと考えて、わたしはまた身震いしました。

ナニの大きさの話です。

イスラム教の女性がこういう事考えるのは、あたくしから言わせりゃ当然なんですが、これを読んだトルコの人はどう思ったのかしらね。

位置: 3,595
それでも、尻を引き寄せられて腹に怒張を押しつけられたとき、最初は嬉しかったのです。好奇心は感じたけれど、羞恥は覚えませんでした。――こんなに情熱的に抱き合ったのだもの、こうなるのも仕方がないわ。わたしは誇らしさを感じながら、自分にそう言い聞かせました。その部位が姿を現したときも、咄嗟に顔を背けようとはしたものの、その大きさに驚いて目が離せなかったほどです。
ずいぶんしてからカラは、キプチャク平原の女たちや、公衆浴場で房事についてまくし立てる無教養な女たちでさえ尻込みするような下品な行為を強要しました。

なんだか妙に惹きつけられる、性行為の描写。
この下品な行為ってのはいわゆる口淫のことなんでしょうが、いや、しかし、この行為のことを悪しくいう民族って結構多いらしいですね。

位置: 3,871
「わしらが神の創造を行おうとしているとでも?」
「まさか」
わたしは微笑みを浮かべた。
「しかし〈優美〉殿は完成した最後の挿絵を見てそう思ったのでしょう。遠近法の知識を用い、西欧の名人たちの様式に追随するのは悪魔の誘惑だと話していたそうですから。

殺害の動機に「神の創造」が関わってくるとか、だいぶSFチックですけどね。
しかし、偶像崇拝禁止の彼らにとってはそういった行為だったのかもしれません。

位置: 3,997
「彼を殺したのがわたしだってあんたは知っていたんだろ?」
いいや、知らなかった。彼が言うまで思ってもみなかった。しかし、〈優美〉殿を殺したのは悪くない。実際、あの優れた装飾画師は徐々に恐怖心に蝕まれ、いずれわれわれに災いをもたらしたかもしれないのだ。そんな考えが頭の片隅で鎌首をもたげた。
つまり、ひと気の失せた家で向かい合いながらも、わたしはこの人殺しにうっすらと感謝の念を感じていたのである。
「そなたが彼を殺したとしても驚かないよ。書物とともに生き、夢でさえ写本の頁を繰るわしらのような人種は、いつもなにかに怯えている。

難解で、ミステリについてそれほど集中できないけれど、とりあえず根性で下巻も読んでみます。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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