『オスマン帝国 英傑列伝 600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち』感想 帝国に興味あり

世界史じゃほとんど脇役ですからね。

13世紀末、現在のトルコ共和国の片隅で誕生したオスマン集団は、やがて三大陸をまたにかける大帝国となった。1453年ビザンツ帝国コンスタンティノープル陥落、1529年ウィーン包囲など、世界で最も強大な国家を築き上げ、イスラム世界の覇者として君臨した。世界史上稀にみる600年もの長きにわたる繁栄の理由は、さまざまな出自を持つ人々が活躍しえたことにあった――。優れた改革を推し進めたスルタン達、西洋列強に劣らぬ文化を確立した芸術家、そして政治に影響を与えた女性たちの活躍。多様な経歴の10の人生を通して、大国の興亡をひもとく一冊。

とりあえずオスマン・トルコ。
600年はすごいね。徳川家だって300年もたなかったんだから。

第二章 メフメト二世 帝国を作り上げた征服王

位置: 499
1451年、ムラト二世の死去にともなって帝都イスタンブルに戻り二度目の即位を果たしたメフメトは、まず、彼の即位直前に生まれていた、まだ乳児であった弟アフメトを処刑させた。王位継承争いの芽をつむ「兄弟殺し」の法は、こののち150年間、オスマン家のならわしとなる。

徳川家には家光のときの「国松下座」事件もあって、長子相続が基本でしたが。
まさか殺すとまでは、ね。

しかし徹底している。ならわしになっちゃうんだからね。

位置: 563
ヴラド三世(1431~1467年)。ワラキアの串刺し公。
ワラキア公ドラクルの息子であり、弟ラドゥとともにムラト二世時代のオスマン宮廷に人質として入り、そこで育った。
父の死にともない、ヴラドはオスマン宮廷よりワラキア公に任じられた。 傀儡 であったはずの彼は、しかし、オスマン帝国に反旗を翻し頑強に抵抗する。ワラキアに攻め入ったオスマン軍を奇襲で悩ませ、捕虜を槍で串刺しにして見せしめとしてさらすなど、果敢な抵抗を示した。彼は父ドラクルの名をとり「ドラクラ」と呼ばれたが、これによってもうひとつのあだ名をとった──「 串刺し公」である。

いわゆるドラキュラの語源の人ですが、彼もオスマンに人質に入ってたんですね。

位置: 610
メフメト二世は、オスマン帝国のみならず、これまでのムスリム諸王朝の君主たちのなかでも、もっとも特異な個性を持つ人物のひとりだといえる。その個性を形作っていた教養として、ギリシャ・ローマの文物や、同時代の西欧に誕生したルネサンス文化があった。
メフメトは、古代ギリシャの書物を好んで読んだ。コンスタンティノープルの征服後には、コンスタンティヌス一世の書庫より120冊におよぶギリシア語の書籍を収拾したという。メフメトの蔵書には、ホメロスの『イリアス』、クセノポンの『アナバシス』、ヘシオドスの『神統記』などのギリシャ古典のみならず、トマス・アクィナスの『神学大全』(原著はラテン語だが、これをギリシャ語に訳したもの)すらあった。

西欧趣味の皇帝。
なんだか面白いね。信長みたい。

「日本だったら●●タイプかなー」みたいな曲がった楽しみ方も面白い。

位置: 689
バヤズィト二世は、父王メフメト二世とは異なり、外征を控えた地味な君主と評価されることが多い。才気に満ちたジェムのほうが、征服王の 衣鉢 を継ぐ存在だったといえるかもしれない。しかし、メフメト二世時代の行き過ぎた中央集権化を緩和し、制度を整え、文芸を保護することによって、急速に発展した帝国の地固めをしたのがバヤズィト二世であった。

外征だけが君主の仕事じゃないものね。
地固めも大事。バヤズィト二世。興味あります。

位置: 703
オスマン帝国において、メフメト二世が抜きんでて評価の高いスルタンとなったのは、一九世紀なかば以降である。愛国の詩人にして戯曲家であったナームク・ケマルは、歴史家としても才能を発揮し、十字軍を撃退したサラディン、マムルーク朝を征服したセリム一世とならんで、メフメト二世の評伝を著した。

メフメト二世ね。確かに学んだ記憶があるかも。

位置: 717
しかし、帝国史上もっとも有名なスルタンの母が非トルコ系でキリスト教徒であるということを、受け入れがたく感じる人々は少なくないようだ。
2020年現在、メフメト二世の後継者を自任しているのは、トルコ共和国大統領であるエルドアンその人かもしれない。エルドアンは、1994年にイスタンブル市長選挙に福祉党から出馬し、当選して頭角を現したが、その選挙戦のさいに彼は「イスタンブルのあらたな征服者」と称し、彼の当選は「イスタンブルの二度目の征服」と呼ばれた。

いまのエルドアンさん、そんなキャンペーンなのね。

第三章 ヒュッレム 壮麗王スレイマンの寵姫

位置: 761
彼女の名は、ヒュッレム。
元キリスト教徒の奴隷身分でありながら、オスマン帝国の黄金時代を現出させた 立法王 にして 壮麗王 たるスレイマン一世(位1520~1566年)の寵姫となり、のちに正式な后となるまで上り詰めた人物である。

ヒュッレム。また覚えておいて損はない名前。

第四章 ミマール・スィナン 「オスマンのミケランジェロ」と呼ばれた天才建築家

位置: 1,169
オスマン帝国のモスクは、それまでのムスリム諸王朝におけるモスクと異なり、大ドームを持つのが特徴とされるが、これにはアヤ・ソフィア・モスクの様式が影響を与えている。
聖ソフィア教会がモスクとなってすでに100年が経過したスィナンの時代、アヤ・ソフィア・モスクは、帝都の景観の欠かせない一部となっていた。しかしスィナンは、このモスクがもともと異教徒の手による教会であり、ムスリムたる自分が乗り越えるべき対象であると、強く意識しつづけていたのである。

人間って考えることがそれほど変わらないね。やっぱり自前で何とかしたくなるんだね。
憲法とかもその一環なのかしら。あたくしはアヤソフィア好きだけどな。

位置: 1,187
セリミエ・モスクのなかに入ると、その開放的な堂内に驚かされる。壁と柱が多いアヤ・ソフィア・モスクとは対照的だ。やはり広い空間を擁するスレイマニエ・モスクや、スィナンの弟子メフメト・アーの手によるスルタン・アフメト・モスク(通称ブルー・モスク)に比べても、セリミエ・モスクが現出させた空間は突出している。スレイマニエ・モスクとスルタン・アフメト・モスクは、いずれも堂内に四本の巨柱が屹立し、それらがドームを支える構造になっている。たいしてセリミエ・モスクは、絶妙なバランスによってドームの重量を壁面に逃しているため、堂内に独立した柱を持たず(ただし、壁面に密着した柱はある)、視界をさえぎるもののない空間が広がっているのである。

これ読んでからイスタンブール行くと、また違った感動があるだろうな。

セリミエ・モスク。前イスタンブールに行ったときは行かなかったんじゃないかな。

位置: 1,222
トルコ共和国の民族的英雄としてスィナンを顕彰するにあたり、アキレス腱となったのは彼の民族的出自のあいまいさであった。トルコ共和国は、多民族・多宗教のオスマン帝国を否定して成立した、トルコ民族主義を国是とした国家である。ゆえに、スィナンはトルコ民族でなくてはならなかったのだ。

民族的出自、やっぱり大事なんだね。
そう考えるとアメリカって本当にすごい。

位置: 1,282
あるから、オスマン帝国が宗教の共存をある程度実現していたというのは正しい。しかし注意しなければならないのは、オスマン社会は決して平等ではなかった、という点である。非ムスリムは、イスラム教のきまりに従い、不利な立場におかれていた。一九世紀には、宗教の別なく臣民に平等な権利を与える「オスマン主義」が追求されるが、その完全な実現をみることなく、帝国は滅亡する。共存のみならず平等をも達成するのは、現在の国家にとっても困難な課題である。

共存は認めたが、平等ではなかった、ってね。
うーん、確かに。いつの時代だって優遇はあるもんね。日本だって仏教・神道に優しいって言われりゃそのとおりだと思うしな。

第五章 キョセム ハレムで殺害された「もっとも偉大な母后」

位置: 1,430
ムラト四世は、民衆にたいしても厳しい態度を取ったことで知られる。
風紀の乱れが反乱の原因だと考えた彼は、当時のイスタンブルで流行していたコーヒーハウスを 公序良俗 に反するとして閉鎖させ、酒や煙草も厳しく取り締まった。変装して部下とともにイスタンブルの市街をパトロールし、違反者を手打ちにしたという逸話も伝わる。こうしたムラト四世の政策には、このころ台頭していたカドゥザーデ派と呼ばれる、いわゆる原理主義的な宗教集団が影響を与えていた。
ただし彼自身は、飲酒をたしなみ、 斎戒月 に断食をすることもなかった。現在でも有名なボズジャ島産ワインを、勅令によってスルタン専用にしたという、酒飲みとしてはうらやましくなるようなエピソードもある。個人としての生活は、宗教的な厳格主義とは無縁であったようだ。

このダブスタ、好きだね。だめな新井白石。
コーヒーハウス問題は『私の名は赤』でも出てきたな。

日本のミルクホール的なやつか。

位置: 1,441
ムラト四世は、イタリアの知識人マキャベリの著作である『君主論』のトルコ語訳に親しんでいたという。彼の君主としての容赦ない苛烈なふるまいには、マキャベリの影響があるのかもしれない。

ムラト四世、駄目な感じプンプンするね。
しかし、徹底してる。自分勝手でね。スルタンなんてそんなもんか。

第六章 レヴニー 伝統と革新をかねそなえた伝説の絵師

位置: 1,599
こうしたモスクの装飾に代表される、幾何学模様や草木文様こそ、イスラム世界の美術の「花形」である。偶像崇拝を嫌うイスラム教の教えにあって、神の似姿を再現することは禁忌とされた。キリスト教の教会が、イエスや聖母マリア、あるいは聖者たちの 聖像 で飾られているのと対照的に、イスラム教のモスクは、具象を排し、徹底して抽象化された文様で埋めつくされているのだ。

この辺が『私の名は赤』でもテーマになっていました。
しかし、どうしてそういう理屈になったのかね。精密でそっくりな絵をみて「すげー」って気持ちにならなかったのかな、ムハンマドさん。

第九章 ハリデ・エディプ 不撓不屈の「トルコのジャンヌ・ダルク」

位置: 2,574
こうした状況下で、イスタンブルのファーティフ地区、カドゥキョイ地区で抗議集会が組織され、ハリデもその都度、登壇者として参加した。そのなかでも最大のものが、五月二三日に開かれたスルタン・アフメト地区での抗議集会である。いまはイスタンブル最大の観光地区となっているスルタン・アフメト地区で開かれたこの集会には、二〇万人もの群衆が集まったという。この数字はやや過剰のようにも思えるが、類例をみない規模だったのは間違いない。ハリデはそこで、占領軍への抵抗のみならず、各国の民衆たちの国際的な連帯によって危機の時代を乗り越えるよう呼びかけた。群衆は熱狂し、このときの演説は、ハリデの名を伝説的なものとしたのである。

ハリデさん。女性活動家、ってところですかね。
さすがにジャンヌ・ダルクと言われるだけのことはある。『蝿のたかる雑貨屋』、読んでみたかったけど、映画も小説も見当たらず。

位置: 2,675
その活躍にもかかわらず、トルコ共和国におけるハリデの評価は高いものとはいえない。それはひとえに、無謬でなくてはならないアタテュルクの偉業を批判したことが理由であろう。たとえばトルコ共和国史の教科書において、ハリデは、アメリカの委任統治を望んだ人物として言及されるのみである。
しかし近年では、ハリデの本格的な伝記が刊行され、文学雑誌でハリデの特集が組まれるなど、復権の兆しが現れている。彼女がその偉業にふさわしい評価を得る日も、遠くはなかろう。

「無謬でなくてはならない」ってのは本当なんかね。
天皇的な?でもまさに建国の父だもんね。今度トルコ人の友人に聞いてみたいと思います。

第十章 ムスタファ・ケマル トルコ建国の父アタテュルク

そして真打ち登場。この人しかいないでしょう。

位置: 2,937
権力を固めたあとのケマルは、新しいトルコという国のかたちを整えるために、矢継ぎ早に大胆な改革を打ち出していった。
その軸となったのは、トルコ民族主義である。多民族・多宗教の国家であったオスマン帝国から、世俗的な単一民族国家であるトルコ共和国への転換が、きわめて強権的に目指されたのである。この政策は、新しいトルコという国をまとめあげるために必須の政策であり、曲がりなりにも成果を収めることに成功した。しかし、この政策は、三つの大きな副作用も生んだ。
ひとつは、クルド人の問題である。

いや、この人は伊藤博文であり西郷隆盛であり桂小五郎であるわけだ。
大したもんだが、しかし、後世に残した負の遺産もでかい。

位置: 2,945
ふたつめは、イスラム教とどうむきあうか、という問題である。新生トルコ共和国においては、西洋的な世俗国家が目指され、カリフ制をはじめとして、 イスラム学院 や 宗教寄進 など、イスラム教に由来するオスマン帝国時代のさまざまな制度が廃止された。しかしそれでも、オスマン帝国の国教であったイスラム教に代わるアイデンティティの構築は、容易ではなかった。イスラム教の政治的影響力は可能な限り排除されたものの、その文化的な影響は、否定しきれるものではなく、現在にいたるまでくすぶりつづけることになる。

これはまぁ、普通に考えりゃ凄く大変なこと。
政治と宗教が分かれるなんてこと、あり得なかったんだから。

位置: 2,952
ケマルは進歩的かつ開明的なリーダーとみなされることが多く、その評価は間違いではないが、彼の手法は批判を許さぬ独裁的なものであった。たとえ政権に好意的な主張を持つグループであっても、少しでも意にそわない点があれば解散させ、忠実なイエスマンで固めて類似の集団を組織させた例が多々みられる。イスタンブル大学の解体と再編はその好例といえよう。また、いちど野党の結成を命じたものの、野党が思わぬ人気を博したのを見て取り、すぐさま解党させてもいる。こうした権威主義は、クーデタや独裁が繰り返されるトルコ共和国の政治に、少なからぬ影響を与えた。

今はケマル・アタテュルクに対してもそういう冷静な評価がされるようになってきているのかね。興味深い。

いやあ、面白かった。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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