『NHK100分de名著ブックス ブッダ 最期のことば』感想 やっぱ哲学者・ブッダだよ

やはり小乗仏教こそ至高。

正しい教えは滅びない

ブッダの死後に編纂された「マハーパリニッバーナ・スッタンタ(涅槃経)」には、ブッダの最後の旅の様子がストーリー仕立てで描かれている。ブッダが自らの死によって示した「人間のあり方」、そして2500年受け継がれる「組織のあり方」を読み解く。特別章「二つの『涅槃経』」を収載。

ブッダは死後に極楽だの地獄だのは、言っていないんですよ。
日本人に馴染みある仏教感は、実は自分にはあんまりしっくり来ていなくて。
仏教系の高校に行っていたんですがね。

どちらかというと小乗仏教のほうが好き。ブッダは宗教者というよりは哲学者ですね。

位置: 13
二千五百年前にブッダが生み出した仏教は、その後の歴史の中で様々に変化し、本来のブッダの教えとは全く違うことを主張する流派もたくさん現れました。日本の大乗仏教も仏教の一つですが、内容的にはブッダが最初に説いた教えとは、似ても似つかないものになっています。大乗の考え方は、どちらかと言うとキリスト教やイスラム教に近く、私たちの外に存在する大きな力に救いを求めるものです。それに対して原始仏教は、外界ではなく心の内側に目を向け、努力による自己改革を目指します。

それってまさに哲学じゃないですか。仏教はもともと哲学だったんですよ。

位置: 139
こうして、同じ仏教といっても「釈迦の仏教」と大乗仏教では、 拠り所 とするお経が全く違ってきます。今では、「釈迦の仏教」が拠り所とする、ブッダ本人の思いに最も即していると思われるお経をまとめて「ニカーヤ(*9)」と呼んでいます。中国語訳では「 阿含経」とも言います。先ほど言った、五千本以上のお経の集合体ですね。このニカーヤ(阿含経)に対して、『般若心経』とか『 法華経』とか『阿弥陀経』といった、大乗仏教の中で生み出された「お経」は、区別して大乗経典と呼ばれ

阿含経(あごんきょう)。あんまり聴いたこと無いな。
どっちかといえばやっぱり般若心経や法華経のほうが馴染みある。

位置: 546
先にも言ったように、サンガのメンバーは仕事をしてはいけません。仕事をしないことが出家者の義務なのです。ですから個人財産もありません。つまりサンガとは、全員が無職無収入者の集団なのです。ということは当然ですが、サンガが土地や建物を買うこともできません。

思い切ったよね。そもそも労働を義務化しないところがブッダの思い切ったところ。
あたくしは労働は悪だと思っていますが、ブッダはすでにそこの域に達していたんだなぁ。

位置: 565
つまりお寺は実際、二十四時間オープンなのです。
今でもタイやスリランカなどのお寺は、そうなっています。特に満月の日などはお寺の中で徹夜の説法会が開かれ、一晩中信者さんが出入りすることも珍しくありません。こうしてサンガの生活が外部に対して完全に開かれていることは、サンガの運営面でも非常に重要な意味を持っています。

よくわからないけど、機能的な気がするよね。そういう俗世間と違うものが24時間開かれているのって。

位置: 636
ブッダという人はキリストやムハンマド(マホメット)のように、神の言葉を人間に伝える伝達者ではありません。ブッダは、「全知全能の救済者などどこにもいない」という確信のもと、「普通の人間が自分の力で究極の安楽を見いだすにはどうしたらよいか」という問題を自力で解決し、それをまわりの人たちにも教えてくれた、一人の人間です。

哲学者やないの、やっぱり。

位置: 668
私の説いた教えをしっかり学べ。そしてその教えを元にして、お前たち自身が精励努力せよ。それ以外に、生きる苦しみから逃れる術はない」と断言したのです。
この言葉は、「釈迦の仏教」の基本が、外部の絶対存在にすべてをゆだねる「信仰の世界」ではないことをはっきり示しています。仏教がブッダという存在を絶対的に信仰する宗教なら「私を島とせよ」と言うはずですが、ここでは「私の 教え を島とせよ」と言っています。

信仰では救われない、というのはあたくしも同意。信じる者は騙されます。
信じるのではなく、学ぶのだ。

位置: 675
仏教とは、ブッダを神のようにあがめる宗教なのではなく、一人の人間としてのブッダが説き残した、その言葉を信頼する宗教であり、しかもその言葉を単に床の間に飾っておくのではなく、言葉の指示に従って自分自身で努力していかなくてはならない宗教だ、ということなのです。

うーん、ありがたみ。
努力教ですかね。ある意味じゃ厳しい宗教だ。

位置: 949
余談ですが、沙羅双樹といえば『平家物語』の冒頭部分を思い出す方も多いでしょう。「 祇園精舎 の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、 盛者必衰 の 理 をあらわす」。この一節は、平家が没落していくさまを、ブッダの入滅に重ねて描写したものとして有名ですが、『涅槃経』を読むと、状景はだいぶ違っています。『平家物語』では、沙羅双樹の花の色が褪せて白くなり、それが盛者必衰の様子を示すものと表現されていますが、この『涅槃経』では、ブッダが涅槃に入る時に花の色が褪せたとはどこにも書かれていません。では何が起こったかというと、それまで花のついていなかった沙羅双樹が、季節外れの花をぱっと咲かせた、と言っています。寂しい状景ではなく、むしろ逆に華やかな現象が起こったのです。

平家物語、アニメもやってて大河ドラマもやってる2022年現在ではめっちゃメジャーです。沙羅双樹は盛者必衰どころか、悟ると花開くという。日本は随分と違った解釈ですね。それもまたガラパゴス国ゆえか。

位置: 981
ここで注目すべきは、仏教組織が採用した「二重構造」の仕組みです。仏教は「出家者僧団(サンガ)」と、それを経済的に支える「在家信者」の二重構造の上に成り立っていますが、在家信者と出家者とでは、同じ三宝に帰依しているとは言っても、求めるものが全く異なります。
在家信者の方は、サンガで暮らす出家者に食べ物を供養したり、土地や建物を寄付したりと、日常の生活の中で布施の善行を積んでいけば、その結果として美形になったりお金持ちになったりという、世俗的な果報が得られます。それが在家者たちにとっての「幸福」です。

そう考えるとパープルサンガっていい名前ですね。

ブッダはあくまで、世俗的な果報と出家者の果報を分けて考えている、と。すると溜飲さがります。

位置: 1,126
サンガの弟子たちに対しては、先にも言ったように、「修行こそが本分であるから、修行を続けよ。それが一番の私への供養になる」と言っています。しかし世俗の幸せを望む在家信者に対しては、「最高の葬儀で 弔い、遺骨を祀り、それを拝め。そうすれば皆、天に生まれることができる」と言う

ダブスタですね。だって求めているものが違っているからね。

位置: 1,155
むしろ、本来のお葬式のスタイルは、日本では葬式よりも法事に受け継がれていると思います。みんなでお坊さんを呼んでご飯をご馳走して、有り難い仏教の話をしてもらっておみやげを渡して帰ってもらう ── あれが本来のお坊さんへの処遇の仕方

お金渡しますけどね。まぁ、それはそれ。

位置: 1,434
「釈迦は悟りを開いてブッダとなったのだから、寿命が尽きて涅槃に入った時点で永遠に消滅したのである。だからこそ残された者たちは、そのブッダの教え(法)を拠り所とするしかない」という思いは、今もスリランカやタイ、ミャンマー、ラオスなどの、いわゆる上座部系仏教国では誰もが当然のこととして受け入れています。それこそが阿含『涅槃経』の基本理念なのです。

位置: 1,502
こういった、ブッダの弟子として悟りを開いた人のことを 阿羅漢 と呼びます。「釈迦の仏教」で修行している出家者はみな、阿羅漢になることを目指しているのです。

いまじゃ60歳くらいのひとをアラカンと言いますがね。僧の最高位だとは皮肉ね。今の60代はまだまだ元気。

位置: 1,516
新たな仏教運動である大乗仏教が、特に力を入れて考えたのが、この問題でした。大乗仏教を生み出した当時の人たちは、「我々自身がブッダになることのできる道はある。しかもそれは、出家しなくても、日常生活の中で実現することが可能だ」と主張し、そのための道筋を示しました。それが、いろいろある大乗仏教の教えに共通する基本的側面なのです。

スタンダードをひとつにまとめてしまった。これが大乗仏教だとも言えるかも。

位置: 1,606
日本の場合、隋・唐時代になってからはじめて本格的に仏教を導入したため、大乗『涅槃経』を最高経典と考える南北朝時代の仏教の考えは入りませんでした。しかしどのようなかたちであれ、中国からもたらされる仏教思想のベースに大乗『涅槃経』の教えがある以上、日本仏教もまたその色合いを含んだものとなるのは当然のこと。法然、親鸞、日、道元といった日本独自の仏教を創生した高僧たちは皆、それぞれが独自の仏教世界を構築していくなかで、大乗『涅槃経』の教義を自分なりに 咀嚼 したかたちで取り入れていきました。

まとめ

決して否定するわけではない。しかし、日本の仏教よりも上座部仏教の方に、あたくしは強くシンパシーを感じますね。

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