島田裕巳著『靖国神社』感想 自分のスタンスを明確に

何が問題なのかを整理するために読了。

戦後、解体された軍部の手を離れ、国家の管理から民間の一宗教法人としての道を歩んだ靖国神社。国内でさまざまな議論を沸騰させ、また国家間の対立まで生む、このかなり特殊な、心ざわつかせる神社は、そもそも日本人にとってどんな存在なのか。また議論の中心となる、いわゆるA級戦犯ほか祭神を「合祀する」とはどういうことか。さらに天皇はなぜ参拝できなくなったのか——。さまざまに変遷した一四五年の歴史をたどった上で靖国問題を整理し、そのこれからを見据えた画期的な書。

これはもう、結論はある程度ありきで読んでいまして、ただ理論なき結論を持つのは個人的に嫌いなので、そのために読んだといってもいい。我ながら厄介な性格。

はじめに

位置: 77
日本には数多くの神社があり、その数は 14 万社、ないしは 15 万社とも言われる。そのなかで靖国神社はかなり特殊な神社である。戦前に軍部が管轄してきた点も特殊だし、およそ426万6500 柱 という 祭神 の数は他に並ぶところがない。
しかもここで注目しておかなければならないことは、それだけ多くの祭神を祀るようになったのは戦後になってのことで、太平洋戦争が始まるまでは、およそ 33 万柱にとどまっていた点である。

400万弱、祭神が増えてるわけだ。

位置: 95
だが、本来ならそれよりも重大な問題があるはずである。
それが、天皇が靖国神社に参拝しなくなったという事実である。

平成の天皇の話ね。令和の天皇もしていない。

位置: 99
戦争が続く時代において、戦地に駆り出された日本人は、戦死すれば 英霊 として靖国神社に祀られ、天皇の親拝を受けることができるということで、死を覚悟して過酷な戦闘に従事していった。

前述の「400万柱増えている」ってのは戦死した日本兵の数ということか。

第一章 靖国神社の今 その多様な姿

位置: 210
武道館の追悼式では首相が式辞を述べ、天皇の「おことば」も下されるので、あたかも靖国神社に天皇や首相が訪れているかのような錯覚に襲われる。だが、靖国神社で、全国戦没者追悼式が営まれたのは昭和 39(1964)年に限られる。

へー。訪れていなかったんだ。たしかに、よく考えれば訪れていれば問題になるもんね。

位置: 383
遊就館の前には、「パール博士顕彰碑」と「母の像」が建っている。パール博士は、ラダ・ビノード・パールと言い、インドの裁判官だった。極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)にインド代表として派遣されたが、裁判のあり方そのものを批判して、被告人全員の無罪を主張したことで知られる。

そんなことあったんやな。

第二章 靖国神社の誕生

位置: 477
靖国神社のホームページに掲載されている「靖国神社史」によれば、明治2年6月 12 日に、「 軍務 官 知事 仁和寺 宮 嘉 彰 親王 の命により同副知事大村益次郎らが東京 九段 坂上 三番町の旧幕府 歩兵 屯所 跡に赴き、招魂社建設地を検分」したとある。

位置: 499
東京招魂社は、明治新政府にとって極めて重要な内戦に 殉じた政府軍の戦没者を祀るために創建されたわけである。

戊辰戦争終結に伴う、と。なるほど、であれば大村益次郎も理解できる。元々は内戦の戦没者追悼でやったわけだ。ここ、原点を整理して理解していく態度は大事だよね。

位置: 655
東京招魂社に祀られたのは官軍の戦没者だけで、朝敵となった賊軍の戦没者は祀られなかった。その点で、招魂式の実施は、たんに戦没者を慰霊することを目的としたものにとどまらず、官軍と賊軍との差異を明確化する役割を果たした。つまり、東京招魂社の創建は、結果的に国内を分断することに結びついたのである。

そもそもは官軍の戦没者慰霊のためなわけだ。

位置: 805
合祀とは、二柱以上の神を一つの神社、ないしは一つの社殿に合わせて祀ることをさし、それ自体は神社の歴史において珍しいことではない。

ふむふむ。神社には全く明るくないので、そのへんから話してもらえると助かる。

位置: 809
その点では、靖国神社の合祀が特別ではないということにもなるが、今あげた合祀は、すでに神社に祀られていた神を一つの神社で合わせて祀るという意味での合祀であり、靖国神社の合祀とはやはり性格が異なっている。靖国神社では、それまで神として祀られていなかった戦没者の霊を招き、それを新たに祀ることが合祀とされる。

位置: 835
ここで確認しておく必要があるのは、東京招魂社として創建された当初の靖国神社は、現在とは相当に性格の違うものであったという点である。そこに祀られていたのは、内戦による戦死者のみである。また、基本的に政府軍の戦死者だけである。賊軍とされた旧幕府勢力の戦死者は、そこから排除されていた。

そもそもが差別的というか、内輪の神社だったってことね。

第三章 対外戦争によって変貌した靖国神社

位置: 863
そうした時代状況のなかで、靖国神社をめぐって新しい事態が起こる。それは、幕末維新の時代において、尊皇攘夷の思想をもち、それを実現するために亡くなった志士たちを靖国神社に合祀するよう求める声が、各府県から上がるようになったことである。
その先鞭をつけたのが、明治 16 年5月5日に、 武 市 半平 太(武市瑞山)他の旧土佐藩士、 80 名を合祀したことだった。そのなかには、第二章で紹介した京都霊山護国神社に墓のある坂本龍馬や中岡慎太郎も含まれていた。これは第 13 回目の合祀にあたった。

戊辰戦争から拡大し、尊王攘夷も合祀しろ、と。話が大きくなってきたね。
志士がお好きな方々にとっては快哉ということかな。武市半平太レベルを合祀するあたり、靖国神社側も乗り気だったのかな。

位置: 914
その典型が、「 蛤御門 の変( 禁門 の変)」に際しての戦死者の扱いだった。蛤御門の変は、会津藩と薩摩藩を中心とした 公武合体 派(朝廷と幕府とを結びつけることで幕藩体制を維持しようとした勢力)によって京都を追放されていた長州藩が、京都に攻め入って市街戦を引き起こした出来事だが、この変において長州藩は朝敵、つまりは天皇に敵対する勢力と見なされた。
その点では、長州藩の戦死者は靖国神社に合祀されないはずなのだが、長州藩は明治政府の中核を担うようになり、権力を掌握した側にあった。そのため、明治21年の時点で蛤御門の変の戦死者を含めた旧長州藩の601名が靖国神社に合祀された。その多くは、吉田松陰が開いた 松下村塾 の出身者であった。

位置: 925
つまりは、明治政府における旧諸藩の立場の違いが、靖国神社に合祀されるかどうかに強く影響したわけである。

権力が絡んできて、ややこしくなってきたぞ。長州藩は朝敵だったが、政府の中核だったから合祀の対象になったと。松下村塾まで絡んできて、幕末ファンの方々には垂涎の話題となりましたね。

位置: 945
東京招魂社と呼ばれていた時代には、そこに合祀されたのは内戦における官軍の戦死者に限られていた。ところが、靖国神社に改称され、内戦の危機が遠のくと、京都の東山などに祀られていた維新殉難者が合祀されるようになり、合祀の対象者は拡大した。それが靖国神社の変容の第1段階だった。

よくある話ではある。規模拡大とともに質が変わってきちゃうやつね。
「そもそもなんのためにあるのか」という原理主義者と「ケチケチすんなよ」という派閥が対立したりするよね。

位置: 960
台湾出兵や江華島事件での戦死者が祀られることで、靖国神社に祀られる対象者は、内戦の戦死者と維新殉難者だけではなく対外戦争の戦死者を含むこととなった。

小さい変化ではあるけど、例外を認めた嚆矢ということね。この程度のことから、大筋が曲がっていくのはよくある話。

位置: 983
対外戦争の戦没者は内戦の戦没者の6.5倍にまでふくらんだ。
靖国神社に合祀される祭神の数が急増したということは、戦没者の遺族の数も飛躍的に増えたことを意味する。日露戦争後には少なくとも 10 万世帯の遺族が生まれたわけで、そうした遺族は靖国神社を訪れるようになる。全国からの集団参拝もはじまり、参拝者の数は増えていった。

断るわけにいかないもんね。例外が例外じゃなくなっていく様子。

位置: 1,000
戊辰戦争以来の内戦による死者を祀っていた段階では、その根底に官軍と賊軍との区別があり、靖国神社は主に官軍の側、旧長州藩や旧薩摩藩を中心とした人間たちにとってのみ重要な施設であった。
ところが、対外戦争となると、官軍と賊軍という区別はなくなり、靖国神社に祀られるのは日本人全体が対象となった。その点で、靖国神社は、ようやく薩長の施設から国民全体の施設へと変貌を遂げたことになる。これが靖国神社の変容の第2段階だった。

分かりやすいね。第一が維新殉難者、第二が国民全体。
神社が変質していく。

位置: 1,017
現在、靖国神社に合祀されている戦没者は、「英霊」と呼ばれる。ただし、英霊という表現を使うことには注意しなければならないことがある。というのも、英霊ということばが広く用いられるようになるのは、かなり後になってからのことだからである。
英霊ということば自体が、靖国神社に合祀された戦没者をさすものとしてはじめて使われたのは、日清戦争から日露戦争にかけての時期のことだった。

太平洋戦争でよく使われる「英霊」表現のルーツは日清戦争から日露戦争の間に生まれた言葉だったのか。

位置: 1,147
そうした意識は、大江志乃夫が指摘しているように、日露戦争の時点ではまだ生まれていなかった。大江は、自分が目を通した限りでは、「日露戦争段階の出征軍人中の初級将校や 下士 卒 の手記で靖国神社に言及しているものは発見できなかった」と述べている。

靖国で会おう、は日露戦争行こうの意識なのね。前述の「英霊」と同じく、後から出てきた概念なわけだ。

位置: 1,158
靖国神社に祭神として祀られる戦没者が急増するのは、昭和 12 年に日中戦争が勃発し、戦闘が激化するようになってからである。

第一次大戦では死者数も比較的少なかったしね。
やはり一連の第二次大戦か。どんどん合祀者が増えていくんだもんね。

位置: 1,194
しかも、昭和 12 年には、文部省が 編纂 した『国体の本義』が刊行され、天皇が 現人神 という形で神と等しい存在としてとらえられるようになる。それは、それ以前にはなかったことである。ちなみに、「神国」や元寇の際の「神風」ということばが教科書に載るのは昭和 18 年からである。

位置: 1,199
つまり、戦後に「国家神道」と呼ばれるようになる、現人神としての天皇を信仰の対象とし、その天皇によって統治された日本国を神聖視し、武力による日本国の領土拡張を聖戦として 称揚 する体制は、戦争が拡大し、激化するなかで生まれたものなのである。

ほほー、現人神という概念は昭和に入ってからのものか。
神国や神風も昭和に入ってから大々的に採用されたアイデアなのね。つまり1930年代までは、まだ軍国主義全開という感じでもなかったわけだ。

位置: 1,206
靖国神社は、内戦の戦没者を祀る施設から、維新殉難者を合わせて祀ることで変容し、さらに、対外戦争の戦没者を祀ることで次なる変容を遂げた。そして、戦死した後に靖国神社に祀られることを目的とさせるような施設に変容し、日本の軍国主義体制を支える上で重要な役割を果たすこととなったのである。

一言で言えば、そういうことですね。

位置: 1,266
こうした出来事が示しているように、合祀についての大原則はあり、また、繰り返し細やかな規定が文書化されていたにも関わらず、合祀基準には常に曖昧さが伴った。それは、靖国神社が、戦争で亡くなった人間を一括して祀るのではなく、その死が日本の国の存続に貢献した者だけを祀ろうとしてきたからである。

ルールを恣意的に運用してきたから、どんどん変質してしまったということですな。

第四章 戦後増した靖国神社の存在感と日本国家との深いつながり

位置: 1,526
ところが、国によって援護されるのは、戦死した軍人や軍属の遺族、 傷痍軍人であり、一般の国民はその対象とならなかった。広島・長崎の原爆投下や東京などの大都市の空襲で亡くなった一般人は間違いなく戦争の犠牲者であるにもかかわらず、その遺族を国が援護することにはならなかった。
戦後は、軍人恩給や遺族援護法の対象となる戦没者が靖国神社に祀られるという形になったが、逆に言えば、靖国神社に祭神として祀られるべき人間だけが国の援助の対象になったとも言える。

だから、靖国神社は差別的である、と。あたくしも感情的にはこれに近いですね。戦没者っつうーのは戦って死んだ人だけじゃなくて、被害にあった人全員だと思います。そこへ恩給などで差をつけるのは、戦争を肯定していることになりませんか。

位置: 1,558
戦犯はA級、B級、C級の三つに分けられる。A級は平和に対する罪を問われたもので、ドイツにかんしてはニュルンベルクでの国際軍事裁判所で、日本に対しては東京での極東国際軍事裁判所で審理された。
B級は通例の戦争犯罪を問うもので、C級は人道に対する罪を問うものとされるが、要は、前者にかんする裁判では士官や部隊長が、後者にかんする裁判では下士官や一般の兵士、軍属などが対象となった。

位置: 1,566
日本について、A級戦犯は東京での極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で裁かれ、BC級戦犯については世界各国の 49 カ所で裁かれた。

位置: 1,570
こうした戦犯を靖国神社に合祀すべきかどうかについては、昭和 30 年代前半から靖国神社と厚生省引揚援護局のあいだで検討がはじめられた。

この辺、ちゃんと整理して考えないと混乱するからね。

第五章 「靖国神社問題」はなぜ生まれたのか

長々となりましたが、ここからが本題よね。

位置: 1,770
靖国神社の側は、A級戦犯の合祀を秘密裏に行ったわけだが、それは功を奏し、その事実は半年にわたって世間に知られることはなかった。その事実をスクープしたのは、共同通信の編集委員で厚生省を担当したこともある 三 ヶ 野 大典 で、記事は昭和 54 年4月 18 日夜に配信されている。
翌日には各紙が報道するが、当時はそれほど大きな話題にはならなかった。秦郁彦は、それについて「マスコミも半年前の旧聞に属する既定事実をむし返し騒ぎたててもしかたがない、と早々にあきらめてしまったからである」と述べている。
これは、現在の感覚からすれば、理解しがたいことである。現在靖国神社のことが問題になるとき、真っ先にあげられるのが、現役首相の参拝であり、その際にはA級戦犯が合祀されていることが首相参拝の問題点として指摘される。

当時はそれほど大きな話題にならなかった、ってのが、現在の感覚からするとだいぶ変だ。当時の感覚と、現代の感覚のズレ。これは何に起因する?

位置: 2,064
そのせいだろうか、中曽根は、公式参拝が政教分離の原則に違反しないかどうかというところだけに注意し、その上で参拝に踏み切ったように見える。靖国神社が求める正式な参拝の仕方をとらなかったのも、そのためである。
そうした中曽根の「正式ではない公式参拝」は、中国をはじめとする周辺諸国の猛反発を買った。それは、まったく新しい事態であり、靖国問題は新たな局面を迎えることになった。

いまの靖国問題というのはそれだよね。遺族会の期待に答えたかったんだろうけど。
個人的にはどうして千鳥ヶ淵墓苑じゃ駄目なのか、ずっと疑問ではある。

第六章 天皇が訪れなくなった靖国神社

位置: 2,132
この富田メモは、昭和天皇が靖国神社への親拝を停止したのは、A級戦犯を合祀したことにあるとするものである。新聞報道が行われた当座の段階では、メモの信憑性をめぐって議論が巻き起こり、内容を否定する人間も少なくなかった。

富田メモ:A級戦犯合祀が原因で昭和天皇は靖国参拝をしなくなったという旨のメモ

位置: 2,158
本来、靖国神社成立の経緯から考えれば、天皇親拝が中止されている状況は極めて憂慮される事態のはずである。ところが、A級戦犯の合祀が強行されたことで、親拝の道は閉ざされた。それは、かなり重大な問題であるはずである。
ただ、それを実際に合祀を行った松平元宮司だけの責任に帰すわけにはいかない。祭神名票を送ったのは厚生省援護局である。いくらこのセクションが元軍人主体で運営されていたとは言え、国の機関であることは間違いない。A級戦犯合祀へと向けてイニシアティブをとったのは、日本国家にほかならないのである。

よほどA級戦犯になった方々のことを好きな人達がいるんでしょう。そしてその人達が国の中枢にいるということなんでしょう。嫌になるね。

位置: 2,165
靖国神社のことが取り上げられるとき、それと対比される形で必ずや言及されるのが「千鳥ケ淵戦没者墓苑」のことである。これは国の施設で、現在は環境省が所管している。  敷地面積は1万6000平方メートルで、約 10 万平方メートルある靖国神社に比べれば狭いが、都内としてはかなり広い敷地を有している。中心となるのは、六角堂と呼ばれる建物で、それは納骨堂になっている。六角堂の中央には、 陶棺 が置かれ、そのなかには昭和天皇から下賜された金銅製の納骨壺がある。その納骨壺のなかには、海外の各地域で亡くなった戦没者を代表する遺骨が納められている。

そうそう、こっちでいいじゃん。こっちに参拝すれば、なんの問題もないのに。問題を自らの信念だか票田だかのせいでややこしくしすぎだよ。

おわりに 「靖国問題」はどう解決されていくのか

位置: 2,407
靖国神社には戦没者を祀るということからすれば、戦後、死刑に処せられたり、獄死したA級戦犯を合祀するということは、基準から逸脱する面をもっている。軍人であればまだしも、そのなかには政府の要職にあったとは言え、軍人ではない政治家も含まれていた。昭和天皇や宮内庁の側が、A級戦犯合祀に難色を示したのも、軍人ではない政治家が含まれていたことが大きい。
そこでA級戦犯を分祀するという考え方が生まれてくるわけである。

そのほうがいいよ。しかし、色々と難しいらしい。教義のない宗教の難しいところだね。

位置: 2,503
戦死した自衛官を靖国神社に祀ったとき、同時に、長かった「戦後」も終わる。日本は、二度としないと誓った戦争にふたたび突入したことになるからである。

そんなことがないようにしたいけどね。

位置: 2,529
日本が戦争ということと無縁でなくなれば、「靖国問題」は自然消滅する。その点では、「靖国問題」が騒がれていたときの方が、私たちははるかに平和で安全な社会に生きていたと言えるかもしれないのである。

なんと皮肉な。


まとめの感想

とにかく政治家が行くなら千鳥ヶ淵墓苑ですね。
んで、A級戦犯は分祀。これが一番いいんじゃないかな。

それが感情的に嫌な方々は沢山いるんだろうけどね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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