『蜜蜂と遠雷』感想② 音楽を活字で楽しむ、とは #恩田陸

前々から思っていたんですがね、小説の限界なのかもしれません。

音楽や味などを活字で表現しようとすると、どうしても風景とか映像の描写に頼ってしまいますね。漫画ですが、『神の雫』でワインの旨さと例えるのにミレー『落ち葉拾い』の絵画を出して褒めているシーンがありましたが、結局、それが良さの描写の限界というか没個性というか、ゴニョゴニョ。
もっと洒脱な表現をして欲しいです。どうして他の芸術を頼まなきゃ良さが表現できないのか。他にないのか。

位置: 2,243
弟子など許すはずもない。  ホフマン先生のように。  そう思いついてハッとする。  ナサニエルは、マサルこそが先生の衣鉢を継ぐ者だという自負があるのではないか。  思わず彼のほうに目をやりたくなったが我慢する。  考えてみれば、ホフマン先生こそがハイブリッドだった。プロイセンの貴族に嫁いだ日本人女性を祖母に持ち、父は大指揮者、母はイタリアの名プリマドンナ。幼い頃は各国の親戚に預けられて転々としていたという。複雑な多面性をゆるぎない個性に、ユウジ・フォン=ホフマンという巨大な音楽作品に創り上げたのだ。

また登場人物で凄いのはたいてい日本人というのも気に入らない。最近の「こんなにすごい日本」ブームの影響でしょうか。そういうことされると一気に引くわ。

位置: 2,692
近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ。  だが、風間塵の演奏はそんな解釈からは自由なところにある。もしかすると、作曲者の名前すら知らないのではないかと思わせる、真の自由とオリジナリティに溢れているのだ。曲そのものと、一対一で生々しく 対峙 しているような印象を受ける。それなのに、演奏は完璧──確かにこれは、今の音楽教育に携わる者にとっては受け入れがたいに違いない。

落語もそういう風潮ありましたね。90年台くらいかしら。80年台もそうだったのかな。古典をいかにしっかり古典として演るか。小さん師匠じゃないけど「江戸っ子の了見になれるか」ということですよ。昇太師匠や志の輔師匠がそれをいい意味で覆していったんだと思うんですがね。クラシックなんざ古典芸能ですから。落語よりもっとカチコチとした枠やお仕着せがあるんでしょうな。

位置: 3,306
チャンはそういった、マーケットリサーチの行き届いたアメリカ音楽市場での、観客が望む姿を具現化したようなピアニストなのだ。良い悪いという問題ではなく、時代と大衆の要求で生まれた存在と言える。

こういうスマートな表現が出来る恩田先生だからこそ、もっとピアノの良さそのものを綴ってほしかった。

こんなふうに

位置: 3,609
そういえば、さっきの高島明石という人の演奏は面白かった。海辺に打ち寄せる波、吹き渡る風、漆黒の宇宙まで見えた。あの人もまた、あの人の音楽を生きていたのだろう。  緑色の畑みたいなものを見たような気がしたけど、あれは何の畑だったのだろう。一面の広い畑が、風に生き物のように揺れていた。  アメユジュトテチテケンジャ──  驚くべきことに、少年は高島明石が宮澤賢治の詩を取り入れたフレーズの発音まで聞き取っていたのだった。

畑や風、宇宙といった漠然としたものを借りるでもなく、ましてや宮沢賢治の力を借りることなんて無く、ご自身の筆のみで表現してほしかった。

落語にも

さっきも言ったけど、結構クラシックと落語って似てるんですよね。
再現芸術、というジャンルだからかしら。

位置: 3,404
練習にはいろいろなやり方があるが、明石は考えたあげく、三か月ずつ区切ることにした。全演奏曲──明石の場合、十二曲──を三か月でいったん演奏順通りに仕上げる。次の三か月は、もう一度一曲目から精度を上げて練習する。それを更にもう一度繰り返す。そうすることで、あいだを置いて同じ曲をさらえるようにしたのだ。これなら長いあいだ弾きこんできたという自信を付けられるし、曲の解釈を深められる。

位置: 3,700
「預言者、ですね」  ナサニエルが呟いた。 「そう。神様の声を預かって、伝える。偉大な作曲家もアマチュア演奏家も、音楽の前では等しく一預言者である。そう思うようになったねえ。うーん、このチーズナン、うめぇな。もう一枚追加していいか?」 「ガーリックナンも追加しましょう」  ナサニエルは店員を呼んだ。 「そういや、再現芸術だからこそ、いつも新しくなければならない、てえのがユウジ・フォン=ホフマンの口癖だったけどね」

位置: 3,856
説明はしない──感じさせる。  至って単純なことなのだが、それを表す言葉として見つけたのが「余白」だったのだ。  僕の「春と修羅」は「余白」を表現することがテーマだ。  そう見定めるまで、意外に長い時間が掛かってしまったが、納得できたので後悔はしていない。  それでは、「余白」を表現するためにはどうすればいい?

この3つの文、どちらも落語にも言える。
真理なんでしょうな。そんなものがあるとすれば。

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