『白昼の死角』の悪人はやや極端

それにしても、その計画性と胆力よ。

位置: 5,788
そのままごろりと横になったが、その口と鼻からは、たちまち雷のようないびきがもれはじめた。  ――勝った。  子供のような相手の寝顔を見つめながら、七郎は口の中で呟いた。  自分がこうして、 偽札 ばかりを持ちこんだのに、相手は内容も確認せず金はそろったと社長に報告した――。その瞬間から七郎自身の詐欺横領の罪は消えたのだ。これで、トランクを持ち去れば、五千万円と見えたのは、実は無価値な新聞紙の断片だったという証拠はどこにも残らない。そしてまた、事件が表面化した場合には、七郎は専務からの依頼で、投資のために預かったのだと抗弁できる。  この際の主犯は上松専務自身、法律的に論ずるかぎり、七郎はその従犯者にすぎないのだ。

 酔わせて金を取る、ただそれだけなんですけどね。そこにさまざまな大人の事情とか法律とか、云々カンヌンが入っていて。

位置: 5,833

あなたが酔いつぶれてしまったのを見て、こんな大金を待合へ預けておいてはあぶないと思い、いちおう自分が預かって帰ったうえで、きょうにでもまた、とどけ直すつもりじゃないのですかね」  人間というものは、どういう窮地に追いこまれても、ともすれば希望的観測にかたむきやすいものなのだ。

 実際、そうなんですよね。人間って。むしろ窮地でこそ希望を持つ。そして散々な目に遭う。よく見る光景です。

位置: 5,869
しかし、この点に関するかぎり、七郎の計算にはなんのあやまりもなかった。多少、時間はおくれたとしても、彼は約束の金をそろえて、約束の場所にあらわれ、専務はこれを 確認したのだ。  その際、金がそろっているかどうかをあらためなかったのは、専務の過失不注意で、七郎の刑事責任ではない。  そして、その後の行為については、すべて専務の責任が優先する――。七郎一人を罪に問うことはできないという結論が、再確認されたのである。

 しかし、単純といえば単純な犯行だね。
 しかも、こうやって倫理的に間違ったことを堂々とやるのは頭のいい人のやることではない、とあたくしは思いますがね。長い目でみれば、真っ当でなくとも恨みを買わない稼ぎ方のほうがいい、とあたくしなんざ、思うんですが。
スリルも込みで稼ぎなんですかね。あたくしゃ安定がいいや。

位置: 5,943

「その上松さんが死んだのです」 「なんですって!」  この一言には、七郎も愕然とした。なるほど、そう言われてみれば、相手の眼は泣きはれたように真っ赤になっている。決して、芝居とは思えなかった。 「自分の持っている株券を売り、山林と家とを売って、いちおうの金を作ったうえで、昨夜切腹したのですよ。すぐに病院へかつぎこんで、応急処置はとったのですが、出血多量でどうにもならなかったのです。腹だけならなんとかなったかもしれませんが、返す刀で 頸動脈 を切ったのが、致命傷になったのですね」  七郎もさすがに呆然としていた。これが事実だとすれば、たしかに武人もおよばないような壮烈な 最期 だというほかはなかった。  明治生まれの人間の気骨は、この瞬間に、あらわれたのだ。  彼はおそらく、青年期に、 乃 木 大将 の殉死のニュースに 粛然 と 襟 を正し、終生忘れられないような感銘をうけていたのだろう。  

 でたよ、乃木将軍。好きだねー、ほんと。
 『こころ』もそうでした。確か乃木希典の死でしたね。
 今じゃ教育のせいか、あまり乃木将軍が語られることは減りましたが、昔はそれほどだったんですかね。

位置: 6,000
七郎がその悪魔的天才をふるうような時期は、いちおう去ったのである。  彼はこういう情勢を判断して、いったんは 戈 をおさめるべきだと思った。  深追いは身の破滅のもと、そして、このような好景気も、それほど長くつづくわけがない。  もう一度、不況の波がおそってきて、会社が弱点を 暴露 するまで、何年でも待機しようと思ったのである。

待ちのときは待てる。それも才能。落語も、「最初は喋るの上手くなれ、それから黙るの上手くなれ」てぇますがね。やっぱり間なんですよ。待つべき時に待つ。これ大事。

位置: 6,047
「誰にも恥じない生活――、というのをおしつめれば、闇米などは、一粒も口にしてはいけないことになる。いつか新聞に出ていた判事のように、栄養失調で死ななければならなくなるよ」

「でも、そこには、誰が考えても、はっきりとした境があるじゃありません? 生きるためには、どんな人間でもしているように、闇米を買って食べるのと、何千万という金をつかもうとして、詐欺をするのとの間には、たいへんな違いがありますわ」

「そう言うけれど、罪は罪、僕に言わせれば五十歩百歩の違いなんだよ」

そういうもんかね。価値観かしら。

位置: 6,075
「犯罪は投機のようなもの、賭けとは性質が違うんだよ。危険はあるが、知恵と力で、なんとかその危険はのり越えられる、

詭弁ですね。いや、しかし、本質か。
ただそれを良しとは社会がしない。社会と戦うのは非効率である。そうでしょう?

位置: 6,362
一口にいえば、それは印鑑の転写である。  印鑑というものが、商取引で、どれだけの重要性をもっているかは、いまさら説明するまでもない。  たとえば、小切手にしても、署名と印鑑さえ、銀行にとどけてあるものと一致すれば、金額は自筆でなくともかまわないのだ。署名はとどけ出てあるゴム印でも代用できるが、印鑑は首の次に大事にするのが、事業家ならば誰でも持っている心がけである。  その印鑑が自由に転写できたなら……。

未だに判子が必要な日本。Signatureのほうがいいとは言わないけど、いつまでそんなんで事務やら手続きを煩雑にするかね。人間の愚かさの象徴のような気がするよ。昔ならいざしらず。

位置: 6,461
終戦後しばらくは、ああいう時代でしたもの。程度の違いはあったとしても、誰もが悪いことをしていたんでしょう。たとえば戦国時代のようなもので、たとえ 斬 取 強盗 をしても成功して一国一城の主になれば、誰もなんとも言わなかったのよ」  たか子には、まるで何かの霊がのりうつったようだった。いつもに似あわず、その言葉にも熱があふれ、声もかわってきたようだった。 「ところが、たとえば 由井正雪 のように、世の中が平和になってから、同じことをやろうとしても、成功はしなかったのよ。

こういうことをいうやつは、だいたい自分の都合のいい部分しか見ないね。じゃあ全てを戦国時代の倫理で生きる気もないのに、そういうこという。

位置: 7,039
ただ、彼にがまんのできなかったことは、必勝の誇りを傷つけられたことだった。福永検事に、あのような芝居がかったゼスチュアで自分の陰謀を見やぶられたということが、彼にとっては、 腸 のちぎれるような痛恨事だったのである……。  彼は心に復讐を誓った。  だが彼の性格や犯罪理念などからいって、たとえば、暴力団の一人に拳銃を持たせて、検事をおそわせるなどということは、考えられることではなかった。  今度こそ、どのような鋭敏な警察官でも、鬼といわれる福永検事でも、手のほどこしようのないほどの完全犯罪をやってみせる。法律の盲点、死角を利用して、完璧の勝利をかちとってみせる。――それが最高の復讐だと、七郎はかたく信じたのだ。

最後は信念というかね。己の正義の戦いよ。
するともうダメだ。人間は引き際が肝心だ。

ピカレスクというかクライムサスペンスというか。
とにかく読ませるし面白い。しかし、ちょっと古いね。今読んで楽しめるかどうかは人によるんじゃないかしら。

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