『ねじ巻き鳥クロニクル』 ヌケサク主人公に好感

長かった。

p28
いやにくっきりとした初夏の日差しが、頭上にはりだした樹木の枝の影を路地の地面にまだらに散らせていた。風がないせいで、その影は地表に固定された宿命的なしみのように見えた。あたりには物音ひとつなく、草の葉が日の光を浴びて呼吸する音までが聞こえてきそうだった。空にはいくつか小さな雲が浮かんでいたが、それらはまるで中世の銅版画の背景みたいに鮮明で簡潔だった。目につく何もかもが見事にく っきりとしているせいで、自分の肉体がなんだか茫洋としてとりとめのない存在であるように感じられる。そしてひどく暑い。

この人精神が分裂しているんじゃないかと思うくらい、読む個所によって印象が違います。こういう風景を描写させたらすごいです。美しい。「宿命的なしみ」なんていい形容だな。「そしてひどく暑い」もいい。

p61
ねえ、ちょっと待ってくれよ。そんな風にいろんなことを混同しないでほしいな。確かに僕はティッシュペーパーとトイレットペーパーのこと、それから牛肉・ピーマンの関係については不注意だったかもしれない。それは認める。でもだからといって、僕が君のことをずっと気にもとめていなかったということにはならないと想うよ。僕は実際のところティッシュペーパーの色なんてなんだってかまわないんだ。もちろん真っ黒なティッシュペーパー が机の上に置いてあったら、それはびっくりすると思う。でもそれが白だろうが、青だろうが、僕には興味のないことなんだよ。牛肉とピーマンにしても同じだ。僕は牛肉とピーマンが一緒に炒めてあってもなくても、どちらでもいいんだ。牛肉とピーマ ンを一緒に炒めるという行為がこの世界から半永久的に失われたとしても、僕はちっともかまわないんだ。それは君という人間の本質とはほとんど関係のないことなんだよ。そうだろう?」
クミコはそれに対しては何も言わなかった。グラスの中に残っていたビールを二口で飲み干し、それから黙ってテーブルの上の空き瓶を見ていた。
僕は鍋の中にあるものを全部ゴミ箱に捨てた。牛肉とピーマンと玉葱ともやしが、その中に収まった。不思議なものだな、と僕は思った。一瞬前までそれは食品だった。 今ではただのゴミだ。

実に村上春樹的な夫婦喧嘩。やれやれ。

p113
「どちらがいいどちらが悪いという種類のものではない。流れに逆らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行 く。上に行くべきときには、いちばん高い塔をみつけてそのてっぺんに登ればよろし い。下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。 流れのないときには、じっとしておればよろしい。流れにさからえばすべては涸れる。 すべてが涸れればこの世は闇だ。〈我は彼、彼は我なり、春の宵。我を捨てるときに、我はある」
「今は流れのない ときなのですか?」とクミコが尋ねた。
「何?」
「今は流れのないときなのですか?」とクミコが怒鳴った。
「今はない」と本田さんはひとりでうなずきながら言った。

実にこのあたりの登場人物は魅力的に描かれていますね。本田さんの意味深な感じとか、それでしっかりあとで伏線となっているところとか。短文のリズミカルな感じも良い。

p237
「あなたの場合はそれよりもっとひどいのよ」とクミコは言った。「あなたは 、嘘をついたのよ。誰かとお酒を飲んで、マージャンをしていたんだって最初は言ったのよ。そしてそれは実は嘘だった。どうしてあなたがその人と寝てないって私に信じられるの? それが嘘じゃないって、どうして私に信じられるのよ?」
「最初の嘘をついたのは悪かったと思う」と僕は言った。「嘘をついたのは、本当の ことを説明するのが面倒だったからだよ。

今回の主人公は何時になく弱々しいですね。結構ポンコツ感あって良い。悪いときもあるけど、少なくともカフカくんよりは好感が持てる。妻に浮気されても気付かないところとかね。ヌケサク。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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