『太陽の塔』感想2 くされ大学生モノの原点

圧倒的な疾走感と読後の寂寥感。やはり最高傑作なのか。

p150
時は幕末。慶応年間である。
下関では高杉晋作が三千世界の烏を殺しぬしと朝寝がしてみたいと全く私も同感な ことを呟きながら死んで、京都では新撰組が四条通りをのし歩き、坂本龍馬が万国公法片手になんだか薄汚い格好で暗い小路をうろうろし、将軍慶喜によるヤケッパチ大 政奉還が目と鼻の先に迫りつつある頃合いである。あちこちでお札が降ったり、生首 が降ったり、あろうことか十六歳の美女が降ったりして、「ええじゃないか騒動」は 始まった。
騒動はじわじわ広がって、人々は「えじゃないかえじゃないかおそそに紙はれ破れ
りゃまたはれえじゃないかえじゃないか」と叫びつつ、太鼓を打ち鳴らし、一日中踊 り狂って、町中を練り歩いたそうである。痛快なまでに、何が何だか分からない。踊 り狂う人々は金持ちの人間の家を見つけてあがりこみ、めちゃめちゃに騒ぎ回ったあ げく、めぼしいものがあると「これくれてもえじゃないかえじゃないか」と叫びだす のだが、そうなると家主の方も「それやってもえじゃないかえじゃないか」と言うほ かなく、そうして人々は何でも持って帰ることができたという。痛快にもほどがある。

痛快ですな。まさに。
そういった乱痴気騒ぎを、どこかで求めています。現代人だってそうでしょう。このシーンを読んだときほど「カタルシス」について考えたことはない。

p198
ガランとしたロビーの右手にある階段を上って、閑古鳥と世間話をしているらしい 女性に料金を払い、私は二階に上がった。すでに映画は始まっているが、私は慌てて
客席に入るような無粋なことはしない。

 私は隅に展示されて黒々と光る「栗山四号映写機」を眺めてから、横手の自販機コ ーナーへ入った。珈琲を買い、黒いベンチに座って、悠々と煙草をふかした。通路は 薄暗く、自動販売機のぶううんという音が響き、目の前にはいろいろな映画のビラが 並べてあった。防音扉の向こうから、爆音や、音楽や、もごもごとして聞き取れない 台詞が聞こえてきた。中では何事かスペクタクルな大騒動が持ち上がっているらしい。

 そうして、私は地震鯰のように息をひそめ、見てもよい、見なくてもよいという瀬戸際を行ったり来たりしながら、映画の外側にうずくまる。映画の予感だけを味わうという知的で高尚な遊戯、誰にでも出来ることではない。

粋だなぁ。見ても良い、見なくても良いという瀬戸際を楽しむ。テケツを買って急いで中に入って見るなんて無粋ですね。貴族の遊びだ。

p204
現代の風潮が恋愛礼賛の傾向にあるとしても、そもそも理不尽な情動である恋愛を 讃えている危険性を把握せねばなるまい。人間の底にある暗い情動を、いくら甘い言 葉で飾っていても、ときにそれは全てをかなぐり捨て、本性を剥きだしにする。いざ その狂気に直面し、こんなはずではないと呻いたところで手遅れである。しばしば 「愛情が歪んだ」という表現が使われるが、恋愛というものは始めからどこか歪んで いる。にもかかわらず、なぜ彼らはああも嬉しそうに、幸福そうに、ほくほくと満足 しているのか。

まったくそうだ。正しい。我々は間違っているし、現実を見誤っている。なぜならそのほうが楽しいからだ。理屈で正しいことと楽で楽しいことは別なのだ。これが我々の業である。

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